1921年2月退院、野枝
一九二二年一二月一一日、大杉栄、自宅を密かに抜け出す、和田久太郎を手伝わせる。


一二月一二日朝、神戸に着く、ホテルの部屋で『自然科学の話』の翻訳原稿を直す。


一二月一四日、イギリスの船で神戸を出発、上海に向かう。

一二月、上海で中国の同志を訪ねる、ロシア人の下宿に落着く。

一九二三年一月五日、大杉栄、ル・ボン号で上海を出る。伊藤野枝宛「…『種の起源』を二、三章と『改造』への第一回通信をほんの少し書きかけたくらいのものだ。……船がどこの国の何という船かということが分ってはまずいから、途中の手紙はいっさい発表してはいけない。」。

二月一三日、大杉栄、「パリに着くモンマルトルの真ん中に宿をとった。」

二月、林倭衛宛「僕もやって来た。……僕の来たことは絶対秘密。」。

三月一日、伊藤野枝宛「パリにて。ここに来てもう一〇日近くなる。停車場からすぐリベルテール社へ行って、前に手紙をよこしたコロメルという男に会った。フランスでは老人連は戦後みなひっこんでしまって、今ではこの男が一番の働き手だ。まだ三十そこそこだろう。……翌日、郊外にいる支那の同志連を訪問した。……その後はほとんど毎日、支那の同志とばかりの会見だ。リヨンにも一〇人ばかりいたが、ここにも二〇人ばかりいる。それをまとめてしっかりした一団体をつくらせようと思うんだが、ずいぶん骨が折れる。し……船の中で書きかけた原稿を、今日からまた始める。二、三日中に送る。それを改造社へ持って行って、金にして、また電報為替で送ってくれ。………本や雑誌はみな受け取った。『自由連合』が来ないが、まだ出ないのか。……」。


三月二八日、伊藤野枝宛「僕についてのいろんな風評は日本や支那の新聞でちょいちょい見ている。…社での問題の、結局は大衆とともにやるか、純然たるアナキスト運動で行くかは僕もまだ実は迷っている。純然たるアナキスト運動というそのことにはまだ僕は疑いを持っているのだ。これはヨーロッパで今問題の焦点になっている。そのことは通信で書いて行く。……とにかく僕は今すぐドイツへ行く。ベルクマンやエマもいるようだし、マフノと一緒に仕事をしたヴォーリンなどという猛者もいる。ロシアのことはベルリンに行かないと分らない。……もう目がまいそうだ。二月号の『労運』見た。三月二八日」。

日付不明。近藤憲二宛「いろんな奴に会ってみたが、理論家としては偉い奴は一人もいないね。その方がかえっていいのかも知れないが。が、戦争中すっかり駄目になった運動が、今ようやく復活しかけているところで、その点はなかなか面白い。そして若いしっかりした闘士が労働者の中からどしどし出て来るようだ。………ドイツはよほど、というよりはむしろ、今ヨーロッパで一番面白そうだ。そこでは無政府党と一番勢力のある労働組合とが、ほとんど一体のようになっている。そしてロシアから追い出された無政府主義の連中が大勢かたまっている」。

三月三一日、林倭衛宛「K(小松清・建設者同盟、ジイド、マルローの訳がある)の方も金が来たんでは、お互いに思いがけないところで助かるね。僕の方もきょうようやく金が受取れた。」。

四月二日、林倭衛宛「……バルビュスの肖像がうまく行くといいがね。僕もバルビュス(共産党)とアナトール・フランス(共産党から除名された)とロマン・ローラン(まず無政府主義)との三人に会って、三人の比較評論を書いて見たいと思っているんだが……火曜二日。」

四月五日、「日本脱出記」『日本脱出記』脱稿。



四月二九日、大杉栄、パリにて林倭衛、佐藤紅録と会う。

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パリにおける大杉氏 佐藤紅録

五月二四日「裁判所の留置場へ行った。警視庁へ回る。内務大臣の即刻追放の命を受けた。四時頃、一等書記官の杉村なんとか(註・陽)太郎君だ。マルセイユへ出発しろと命ぜられる。一週間めに出る箱根丸で帰る都合をつけてくれた。

五月二五日、林倭衛宛「友人諸君から金を集めて日本までの船賃をつくってくれないか。……裁判所から受取ったケースの中に、予審判事が(この事実は弁護士も知っている)証拠物件として持ち出した、日本文の手紙や原稿なぞがはいっていない。これは弁護士と相談して、貰えるものなら貰って来てくれ。……僕の拘引以来の、僕に関する新聞記事をあつめて貰ってくれ。……二十五日正午」。

六月三日、大杉を乗せた船出港「朝早く、碇をあげた」。

七月一日、『労働運動』一五号《編集室から》近藤憲二「国際無政府主義大会へ出席の為に出かけて行った大杉は、大会延期のため、遂に三ヶ月のフランス滞在の後に、追っ払われて帰って来る。…」《国際無政府主義大会の延期、捕われる以前》在仏大杉栄。

七月一一日、箱根丸にて、「牢屋の歌」『日本脱出記』脱稿。

七月一一日、神戸和田岬に待ち構えた兵庫県警察部のモオタアボオトは箱根丸から大杉をさらって隠し、市外林田警察署で内務省の特命を受けた特別高等課長は約五時間に亘る秘密訊問の後、釈放」。七月一二日、大杉、東京に戻り駒込片町一五労運社に落ち着く。




八月一〇日、「入獄から追放まで」『日本脱出記』脱稿。

八月一八日、自由人社で大杉栄の仏国行の話。

八月二〇日《三〇日の説もある》大杉、アナキストの《連合》を企図して根津権現の貸し席で集りを開く。不逞社新山初代の《証言》「望月桂、岩佐作太郎等、二、三〇名集まって無政府主義者の連合組織問題の相談会がありました。私は鄭と一緒にその会に行きました。金重漢、洪鎮裕が来て居りましたが朴烈夫婦は来て居りませぬでした」 
註「不逞社」は金子文子と朴烈たちが組織した日本に住む日本人と朝鮮人のアナキズム的傾向をもつ人たちの集まり。
リンク  金子文子の生き方




『大杉栄全集』第三巻 写真頁より 大杉栄・伊東野枝・橘宗一葬儀会場内部


『大杉栄全集』第三巻 写真頁より 大杉栄・伊東野枝・橘宗一葬儀に参集した民衆