巴里の大杉栄拡大
パリにおける大杉栄氏     佐藤紅緑  



もう随分古くなった。七年の過去だ。巴里に於てたった一日大杉栄氏と遊んで暮らした。其れは私としてあまりに不思議な一日である。 私は此の一日を何かに書こうと思って居たが、毎も事故があって果たさなかった。
 一年々々と延びて七年の年月が流れ、私の記憶が次第に朧になった。  だが私は私として奇妙に頭に遺り、其後も折り折り回想する事柄けを記したい。  

 大正十二年の四月二十九日であった、私は私の下宿して居る家族と昼飯を食べて居た。食事が済んで珈琲を飲みかけて処へギャルソンが二人の紳士を伴って入って来た。巴里はいま春である、巴里の春の光は日本の其れよりも烈しく和かである。私の住居は絵葉書によくあるエッフェル塔の裾で、公園のあらゆる樹木と明るい天の反射が私の家の廊下にあらゆる部屋々々に溢れて居る。  

 突然扉を開けたので恐ろしい明るさが颯とサロンに流れた。きらきらした光の中に二人の姿が見えたが眩くて誰だか解からなかった、私は林氏を漸と見分けて声を掛けた。「やあ」  卓子には未だ家族の娘さん達やマダーム達が椅子を離れずに居たので私は席を立った。そうして二人を私の室に案内した。

「馬鹿に娘さんが沢山居るね」と林氏はにやにやして言った。階段を昇って私の室に入るまで私は今一人の人は誰だか解からなかった。其人は草色の服を着て私よりは遙かに若く林氏よりは少し老けて見えた。「やあ、しばらく。八年振りでしたね」  其人は帽子を脱いだ。禿げたという程でもないが額が脱け上がって、髪が少し薄い人だと私は思った。其れでも私は誰だか解からなかった。「大杉君だ」と林氏が言った。 「ああ、そうだ」  一言に言えば私は大杉氏には何の親しみもない、交際もないと言ってよい。私は社会主義は大嫌いなのだ。  

 大杉氏と初めて会ったのは著作家組合を創立しようというので相馬御風氏や岩野泡鳴氏や其他約十五六人が相談会を開いた。此の会合が二三度あった。私は一度も欠席しなかった。大杉氏もそうであった。四回目が終わりで当日は来会者がほんの五六人であった。私は組合創立の熱心者として大杉氏を知った、大杉氏は一番若かった。  
 大杉氏と私との関係はこの席上で会合したに過ぎぬ。 いろいろな話が断片的に出た。  私が彼が何の目的で来たのかと訊いた。 「九月にベルリンに世界労働組合の大会があるから其れに行こうと思って居る」と彼は言った。  彼は私よりも三月ばかり前にフランスへ来た。そうしてリオンに隠れて居たのである。リオンに中国人の同主義者二十人ばかり一つの町を巣窟として住んで居る。彼は中国人になって其等と同居して居るのだ。 「君は日本では日本のお尋ね者であったが今度は世界的のお尋ね者になったのだね」と私は言った。

「そうだ」と彼は笑った。 

「何処から金がでたのか」 

「横浜の某氏から貰った」 

「後藤新平伯が出したという新聞が出たがあれは?」

「嘘でもないが本当でもない」 

「其れで君は何時パリへ来たのか」

「昨夜」 

「密偵が從いてるだろう」

「多分!」 

「何処へ宿った」

「林君の宿へ」 

「どうしてパリへ来たのか」

「君がパリへ来た事を新聞で見た、一寸会いたくなったから」

「そうか」  私は極めて奇妙な気持ちに襲われたので黙った。  

 元来彼の主張するものは何か、共産主義、労農主義、

彼は露西亜の其れと同じ主義を有て居るのか、

但しは夫等と異なった考を有て居るのか。  

 私は精しく聞きもし、又私の考えも吐露したいと思った。

だが私には其の勇気がなかった。

私は遙かに私を訪ねて来た人に議論を

吹っ掛けて不愉快な思いをさせたくなかった。

主義よりももっと大きなものが二人を結び付けたのだ。

面白く一日を暮らそう。  

 三人は宿を出た。  

 三人は散々遊んで疲れた。

 すると大杉氏はパリで第一等の料理を食いたいと言った。

「よし、行こう」林氏は第一等の料理屋と称する処へ案内した。  

 三人はキャッフェ廻りをしようという事になった。

どれだけ廻ったか解からないが

其中にラモルト(死んだ鼠)という店があった事を記憶する。

此処で林氏と私は故国へ葉書を書いた。  

 其れでも感興が尽きなかった。大杉氏は女郎屋を見たいと言い出した。

其れは私も同感であった、パリの公娼はどんな風にして居るか、

私としては視察の一要件なのである。  

 私達は、寂しい町の赤い軒燈の點った家へ入った。

トンネルの様な細長い路地を突き当たって扉を押すと、

驚くべし其処に昼の如く明るい電燈の下に十人ばかりの裸の

女が並んでいる。余りに突然なので私は逡巡した。

室は日本の十六畳位、壁は真赤に塗られて腰張 は全て鏡である。

上には淫らな裸体画が掛けてある。

向かって右の赤い壁の下に腰掛が長く打ち付けてあり、

其前に卓子ヵ五六脚並んで居る。右側の奥は二階の寝室へ

行く階段で入口に近い処にスタンドがあり、

酒の壜や食器など日本のキャフェと異らない。

何しろ身体に一糸を纏わぬ十人の女、

身に着けたものは靴だけである、

が私達を見るや否や灯取蟲が電燈に群がる様に

跳び付いて来たのだから堪らない。  

 モデルを見慣れた林氏には一向珍しくもなかろうが

私はただ途方に暮れた。

どうして此の肉陣を脱出しようかが差し当たっての問題である。

いかに肉を売るのが商売とはいうものの赤裸々の肉其のものを

店頭に曝すに至っては外国人は日本人よりも遙かに残忍であり

低級趣味であると思った。  だがそんな事を考えて居られない。

女はどしどし肱を取り首に巻き付き大蛇の様な唇を寄せて来るのだ。

私は巴里のサロンやブルュセルの博物館にある「虐殺」の画を連想した。

私達はまるで女に擒にされて今将に虐殺されんとして居る様なものだ。  

流石の豪傑林氏もこれにはすっかり参ってしまった。

「やあどうもこれは」  彼は唸り唸り退却した。

「やあ、やあ」  

此のやあという当惑の声は滑稽でもあるが悲惨である。

私達は何時の間にか壁際の腰掛に押付けられてしまった。

私は考える処あって一番入口へ近い処に座った。

私の隣は大杉氏で林氏は一番奥の方である。 

「ビールを飲もう」と大杉は言い出した。

裸体女の曲芸が始まった。

女の中に一人の黒人種があった、白人の中の黒人は益々黒く見える。

其顔は破れた古靴の如く横に拡がって唇だけは赤子を食った様に赤い、

此の怪物は私を目がけて突進して来た。

恰も夫れは有色人種同士だから同情してくれと言うかの如く見えた。

同情はするが近寄られては困る、私は逃げ出そうとした。

すると大杉氏は彼女を自分の傍らに坐らせた。

「こいつは可愛そうだよ」と彼は言った。

私はそこに大杉氏の片鱗を見た。

彼は洋盃を捧げて女に飲ませ、それから煙草を一本くれてやった。  

 そこへ一人の労働者風の客が見えた。

汚れた服を着て袋になった中折帽を阿弥陀に被って居る。

スタンドの主人が何か号令を掛けた。

十人の女はぱっと私達の傍らを離れて卓子の向側に整列した。

労働者はじろりと其れを見やった。  

 此の隙に私は雲を霞と逃げ出した。

トンネルを過ぎて入り口へ出た時に大杉氏が逃げて来た。 

「林君は?」 「どうしたろう」  

言う間もなく林氏はのそりのそりと落ち着き払って出て来た。

「君等はなかなか速いね」  私は彼の沈勇に感服した。

私達は妙に憂鬱になった。

人間の最も残忍な醜悪な状態を明からさまに見せられたのある。

「あれに比べると、日本の公娼の方が遙かに上品だ」と大杉氏が言った。  

 廃娼論者の私でも其れには首肯しないわけに行かなかった。

世界の都たる巴里にもこんなものがある。

人類の住む処にはどんな醜悪が動いて居るか測り知る事が出来ない。  

 私達は再びキャフェへ行った。もう二時である。ソロボン附近は其れでも

一軒だけまだ盛んに騒いでるキャフェがあった。  

 私は到頭二人に別れた。私がタクシーに乗る時大杉氏は私に恁う言った。

「明後日の労働祭にイタリーの付近で労働者が芝居をやります。

木戸銭は一フランです。見て行きませんか」

「結構、見たいな」

「じゃ、僕が迎えに行くから待っててくれ給え」

「ああ待ってるよ」  

 私は宿へ帰って疲れた身体を寝床へ横たえるや否や熟睡に落ちた。  

 一日過ぐれば五月一日である。私は朝から大杉氏を待って居た。

九時になり十時になった。大杉氏は見えない、私は郵便を出しに外へ出た。

町行く人々はどれもどれも鈴蘭の花を胸に着けて居る。

花屋の屋台には鈴蘭が山の如く積まれて居た。

私は一束を買って宿へ帰った。  





 大杉氏は未だ見えない。午後になった、夜になった。

到頭私は一フランの貧民芝居を見る事が出来なかった。  

 翌朝私は散歩にでようと思って階段を降りると其処で此の家の

秘書役たるC婆さんに逢った。C婆さんは英国人で大きなべっ甲縁の眼鏡を掛け

何時も腕首まで袖のあるコスチュームを着て居る。

頭は斑白でもう五十だというに自分で処女だと言って威張って居る。

「サグ、ムッシューサトウ」と彼女は声を掛けた。 

「貴方は今日のゴーロラを見ましたか」と彼女は言った。

「いや見ません」

「日本の共産主義者が逮捕されましたね」

「日本の?」  

 私の頭に大杉栄の姿がはっきりと浮かんだ。

「そうです、そうですお待ちなさい」  

婆さんは慌ただしいく部屋へ引き込んで新聞を持って来た。 

「それここをご覧なさい」  

 其れはほんの十行ばかりの記事であった。

昨日のメーデーで労働者大会の連中が路傍演説を始めた

其中に一人の中国人が極めて露骨で大胆な演説をした。

警官が夫れに中止を命じたが肯かないので拘引しようとした、

すると労働者共は中国人を助けるために警官に抵抗した。

応援巡査がやって来た。見る見る双方の戦いが激しくなり、

互いに負傷があった。そうして到頭二十余名を拘引した。

この過激な演説をした中国人は自ら中国人と称して居るが

実際は日本人らしいと当局者が睨んで居る。  

 私は此の記事を読むと思わず手を額に当てた。

「困った事をしてくれたなあ」  

 其れだけである、其他の考は何も浮ばなかった。 

「知ってる人か」と婆さんが言った。

私は可い加減な返事をして家を出た。

「無論大杉だ、其れに違いない、大杉だとすると扨てどうして可いものか」  

 私は考え考え歩いた。私は兎も角、林氏を訪ねる事にした。  

漸と林氏を訪ねたが留守である。  

 私は直ぐ大使館へ行って見る事にした。 

 大使館で私は×氏に会った。私が話かける×氏の方から言った。

「あれに就いては実に困ってるんです。警視庁では

日本人だと睨んで居る其れに違いない。

確かに大杉ですからね。だが大杉は中国人だと言って居るから

今の所では都合が可い。

どうか日本人と言はずに押し通してくれれば可いがなあ」 

「其れじゃ、いま此処で騒がない方が可いですね」 

「そうです、先刻警視庁から電話で訊いて来たが多分其れは

中国人だろうと言ってやりました。

そういう風ですから様子を見る方が可いでしょう、

貴方は大杉とどういう間柄なんですか」 

「何でもないけれども僕に会おうと思って巴里へ出て来たのが、

急にあんな事をやったもんだから僕としては見捨てて置かれないのです」

「其れは御尤もです、僕にした処が官職を離れて単に

一日本人の立場から考えると、

同国人が拘引されたと聞くと、黙って居られない様な気がしますよ。

其れは貴方も飛んだ災難ですね。」

「災難という程でもないが、只だ大杉は肺病が漸く癒りかけた許ですから

此処で監獄に打ち込まれると可愛そうです。

こっちの監獄はパンと水ばかりだそうですからな」

「そう、どうしてあんな事をやったんですな」

「計画的じゃないと思います。九月に伯林へ行かなきゃならないと

言いますから……若いから大会の空気に興奮して気勢を挙げたんだと思います」

「一体大杉の主義は何ですか」  

 突然×氏は恁う言て其の大きな肩を揺すった。

「僕にも能くわかりませんが……」 

「幸徳などとは全然異う様ですね。国体破壊などという過激な考えはない様ですね」  

 彼は凝と考え込んでから又言た。

「何しろ、中国へ行て中国人の名前で旅行券を取てリオンへ来て、

中国人と共に生活して其れから巴里へ出るまでに、

随分苦労したに違いありません。

主義に於ては賛成が出来ないが、

個人として考えると、大杉はえらいと思いますよ。

主義に殉ずる志、これは矢張り尊敬しなきゃなりませんね。

只だね、其の主義なるものが本当に日本のため、

人類のために善いものものなら可いが……、

あれだけの熱心をもっと立派な主義に向けたらどんなに

日本のためになるか……惜しいものですな」  

 私は何から何まで×氏の説に同感であった。

一社会主義者、私達の立場から見て異端者である彼に対して、

恁くまで理解ある同情を有った人があるかと思うと私は何となく

喜ばしくなった。  

 私は大使を出て再び林氏を訪ねた。

林氏は依然として留守である。

帰ろうとして外へ出て上を見ると窓から日本人の顔が見えた。

彼は四階の上から河を眺めて居たのある。

私は彼を知らない。だが日本人である以上は同宿の林氏を知らない筈がない。

「君、林君はどうした」と私は大声で言った。

「居ません」 

「何処へ行ったろう」

「今朝警察の奴が来て林君の荷物を全部持って行ったので其の事でしょう」 

「林のものを取り押さえたって仕様がないじゃないか」

「巴里の警察が林の画でも買い上げる積もりでしょう」 

 私は此の青年画家の名を忘れた事を残念に思っている。

「林君が帰ったら、僕の処へ来る様に言ってくれ給え」  

私は恁う言って引返した。其翌日私は林氏を待ったが来ない。

仕方なしに再び大使館へ行って×氏に逢った。

「駄目だったあれは」  

 ×氏は大きな目に微笑みを浮かべて言った。

「とうとう日本人だと言ってしまった。

今警視庁から電話が掛かって来ました。

一寸行って来ます」

「其れじゃ後で又来ましょう」  

 私は大使館を出た。もう大杉である事に確定した以上は方針は

只一つに向かえば可いのだ。第一は大杉を釈放して貰う運動だ。

第二は釈放が出来ないとしても差入物や何かの用意だ。  

 日本に居ると隣に火事があっても尻を上げないというので友人に

笑われて居る私が、大杉釈放や差入物などの運動をするという事は

実に負いきれない努力で或。其上に言語が不自由である。

私は全く弱ってしまった。  

 私は不図某新聞記者のM氏を憶い出した。 

 M氏を訪ねると留守である。  

 大使館の×氏も個人として大杉氏を尊敬しながら主義に

於ては接近する事を避けて居る、M氏も大杉氏を助けたろうが

累を本社に及ぼさせては大変である、

私としても只一ボヘミアンたる佐藤ならどんな事でも出来るが、

今の処では日本政府の嘱託という肩書きを有して居る。 

「やるだけの事はやらねばならん」  私は恁う決心した。

そこで私は直ぐ車に乗って警視庁を訪ねた。

私が会ったのは何の位の資格の人だか解からないが

兎に角保安課長の次席位の人であった。  

 私が来意を告げると彼は微笑した。

其れから長い指を組み合わして胸の処へ置き。

「何でもない事です」と言った。 

「何時になったら釈放してくれますか」

「さあ、もう二三日……一週間……或いは二週間……」  

 私は驚いた、二三日と二週間とは大変な違いである。 

「何しろね、日本大使館が引き取ってくれれば可いが、

引取らなければ相当に長くなります」 

「引取る引取らないは別問題として、

兎に角巴里の警視庁が此の事件をどう取扱うかに就て私は心配して居ます、

一体恁ういう国事犯に就ては今までどういう風に取扱って

居たのですか」 

「左様左様、其は至極簡単にお答えがで出来ます、

つまり追放ですな」  

 其れから私は大杉が病弱であるから長い間

牢獄には堪えがたき事や、

出来る限り早く追放して貰いたい事などを頼んだ、

そうして最後に現下の牢獄状態に就いて訊ねた。  

 そこで私は差入物の手続きをして帰った。  

 それで大杉氏に対する大略の要件が終わった、  

伊太利行きは延ばすべく決心した、

が此処に飛んでもない事件が出来らいした。

其れは大杉氏の同志と症する青年達が

毎日私の家へやって来る事である。

「佐藤という男が警視庁へ行って大杉のために奔走して居る」 

此の報知が次から次へと伝わったと見える、

事件で入獄したものは大杉ばかりでない、

大杉と共に巡査を殴った二十人である。

此の中にはロシヤ人もあり、瑞西人もありポーランド人もあり、

獨逸系のアルサスローレン人もある、

私は今は其等の人の名を悉く記憶しないがGという兄弟だけは

はっきり記憶している。

Gはロシヤ人を母とし佛蘭西人を父として居る、

兄は大きな男で吃りではあるが恐ろしく雄弁である。

弟は黙って居るが、いつも最後の決断は弟の一言に依るのであった。

兄はもう四十位、弟は其れより五つ位は若い様に見えた、

其他二十一歳の青年や白髪の老人もあり、

特に私の注意を惹いたのはTという若き婦人で彼女の恋人は巡査をなぐって

収監された一人である。Tは市場でバナナを売る女であった。

最初の日彼女は私にバナナが好きかと訊ねた、

私はそうまでにすきでもないが御世辞に好きだと言た、

すると彼女は翌日バナナを持て来た。  

 此の事件に依って端なくも私は欧州に於ける共産主義者の群に

接近する事が出来た。

大杉のために奔走して居るという事が彼等をして

私を誤解せしめた、

彼等は私を同主義者だと信じて居たのである。

何れの国でも破壊的思想を有て居る者の精神は

いつも興奮して居る、彼等は絶えず戦闘状態にあるのだ。  

 彼等は極めて無遠慮に私の室へ入って来て其の大きな手で

私の手を痛いほど握る、

其れから室一ぱいに煙草の煙を漲らして議論を初じめる椅子が

足りないので三人位は寝台の上に乗って足をぶら下げて居る。

私は彼等から主義の上に於て若くは彼等の運動方針に就て

何も聞く事は出来なかった、

無論私の語学の力は其れを聞き逃したのかも知らぬ、

彼等は大杉氏及び其の共犯者(?)が何時釈放せらるるか、

当局の意向はどんな風にか、長びくか、

但しは近々になるか、そんな事に就て私に訊ねた。

そうして又銘々に其の意見を述べた。  

 或日Gの兄が一人でやって来てロシヤの労農政府を罵倒した、

労農政府がアメリカの機嫌取をやるのは怪しからぬ、

そんな事をするよりはも今吾々が第一に着手しなければならぬ事は埃及だ、

印度だ、土耳古だ、そうして中国だ、本当の共産主義は東洋を根拠地と

しなければならぬ。  

 彼は手を振り眼を■って長々と独り演説をやった、

其れから折々私に返事を促して英語交じりで戦争の惨苦が

世界人の頭から冷めきらぬ中に共産主義を浸み込ませなければならぬと言った。

そこへ弟のGが入って来てそんな空漠たる事を言って居るべき場合でない、

独逸の食料組合が大資本家に買収されんとして居る、

先ず欧州の食料問題で一と軍しょうじゃないかと言った、

二人は恐ろしく興奮して論じ合った。

そこへいろいろな人達が入って来た、

終わりにT女が来て例のバナナを私の卓子に置き、

私から五フランの勘定を取って行った、

私は貰ったのだと思って居たが、彼女は私にうりつけたのである。  

 四日も恁ういう状態が続いた、毎日彼等がやって来て議論をしてバナナを食って

解散する、私の室は恰ら共産主義者の事務所の様になってしまった。

これには私も堪えられなかった。

私は日本人倶楽部へ遊びに行った、

異郷にあると同国人と日本語で語るのが

何よりの楽しみである。

無論私は林氏が倶楽部に来て居るだろうとの予想もあった。  

 林氏は見えなかった、私は帰ろうとすると偶然大住氏が

一人の友と共に入って来た。

「日本主義愛国主義たる君が、非日本主義非国家主義たる

大杉のために奔走して居るのは可笑しいじゃないか」 

「ありがとう、僕は明日伊太利へ行くよ」 

私は大使館へ行って後の事を×氏に頼んで翌日伊太利へ出発した。

其れから一月以上私は大杉氏の消息を知らなかった。  

 私は巴里へ帰ってから直ぐ白耳義に遊び和蘭を経て伯林に入った。

三月は夢の如く過ぎた、と本国震災の報に接した。私は帰らねばならぬ。  

 私は三度巴里に入った。

「やあ」  

林氏は椅子を私に与える事も出来ずに

只声を掛けたのみであった、

若き芸術家達の瞳は一斉に私の方へ向けられた。 

「僕は明日帰るよ」と私は言った。

「そうか」  

林氏はまぢまぢと眼を動かした、

其れから二三の人の頭越しに顔を挙げて私の眼を見詰めながら。

「あれがね」  

しばらく考えてから又続けた。

「あれがね、帰ったよ、君にくれぐれもよろしくって……僕はマルセーユまで送って行った」

「そうか」  

其の翌日、私は倫敦の客となり、

翌日(多分九月二十四日頃)大使館を訪ねて二三の友と応接室で語って居た、

そこへKという私の友人がエレベーターを降りて入って来た。 「大杉がやられたよ」  

彼は恁う言った、やられたという意味は私にも人人にも解からなかった。 

「殺されたんだ、憲兵に殺されたんだ、今電報が着いた」  

私は大西洋を渡って紐育へ着いた。

日本人倶楽部に日本の新聞が幾種も来て居る、

私は其れを貪る様に読む中に事の真相がはっきり解かった。

「危険を慮って甘粕大尉が独断で殺したのだ」 

ああ、余りに呆気なき大杉の最後である。

此の大尉は私の大切な仕事の一つを

私の手から奪ってしまったのだ。 


2005年7月31日アップ