『労働運動』追悼號表紙

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大杉榮『労働運動』追悼號収載

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大杉榮『労働運動』追悼號収載

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伊藤野枝と魔子『労働運動』追悼號収載

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逗子の大杉・伊藤・魔子『労働運動』追悼號収載

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大杉の筆跡『労働運動』追悼號収載

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大杉榮肖像『労働運動』追悼號収載

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大杉榮『労働運動』追悼號収載

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神戸にて下船する大杉榮『祖国と自由』追悼號収載

大杉神戸下船

神戸にて大杉を迎える伊藤野枝と魔子『祖国と自由』追悼號収載

野枝神戸

伊藤野枝・大杉榮の遺児たち『祖国と自由』追悼號収載

大杉遺児たち

『アナアキストの悪戯』

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大杉栄・日本脱出記  第一章 大杉栄の「日本脱出」と外務省史料、「東京日日新聞」記者との会見


日本脱出記
第一章 大杉栄の「日本脱出」と外務省史料、「東京日日新聞」記者との会見

                           
               2009年3月


  

  
アルス刊『日本脱出記』  表紙


                
 大杉栄の一九二二、三年の二度目の日本脱出はメーデーでの演説からフランス官憲に拘引、国外追放で幕となった。そして神戸上陸から二ヶ月余りで虐殺され、今後のアナキズム運動をめぐる論議が東京で始まらんとした最中に大杉の意図はついえた。大杉はフランス滞在中、ベルリンに行き「ベルクマン、エマ、ヴォーリン」と語り合うことを願っていたがかなうことはなかった。

 この最期の活動となってしまった「日本脱出」、大杉の日本不在は日本の内務省、官憲を慌てさせたのは当然であったが、今回新たに外務省の外交史料中から大杉をめぐる日本政府の対応の経緯が明らかになった。
 またこれまで関連した文献で言及がないが、「東京日日新聞」記者がパリで大杉と合流をしメーデー当日に会見をしている。(鎌田慧氏が『大杉栄自由への疾走』で同記事には触れているがなぜか会見部分には言及をしていない)。



その際に原稿を入手したと推測するが大杉のパリでの滞在記が(近藤憲二編集による同年十月刊行の『日本脱出記』では「パリの便所」として同文を収載)いち早く六月二十二日から四日続けて「佛京に納まって」と題され掲載されたことを新たに発見した。



  

 記者本人がメーデーの直後に日本に原稿を携えて戻ったのか、または知人に原稿を託したのであろうか。外務省の史料、松田代理大使から内田大臣宛の報告に「右演説の要旨は当地滞在中の東京日日新聞記者井澤某に依りて密に本邦に報道せらるることに仝記者と大杉との間に打合済なる趣なり」と記されている。(大澤正道氏から井澤記者は松尾那之助と交友があったことを教示された)。


 たまたま他の件で特派されパリ滞在中に大杉の動向を知ったということなのか不明であるが、東京日日新聞記者と大杉、労働運動社とは深い交流があることは確かである。

 五月四日付「東京日日新聞」の報道を紹介する。
見出しは「支那人に化けた大杉栄氏パリで捕はる、メーデーの群衆を前に演説中を警視庁へ」二日発パリ特電。

「目下パリに滞在中の大杉栄氏はメーデーの労働組合本部において記者と会見して『僕は上海からバリーに来て
既に一ヶ月になる四月ベルリンに開催の国際無政府主義大会に出席の目的で来たが延期となった大会終了次第帰国する』と語りかくて氏はメーデー大会に参加しサン・デニス街で支那人董の名で群衆を前に演説中を官憲に知られ二日午後五時サン・ミシエルの広場で逮捕された氏はネクタイもむすばずチヨツキも付ず霜降りの古洋服を着たまま六名の刑事に警戒され大杉と名乗って警視庁に引致され折り柄出あったわれ等(特派員)に『とうたうやられたよ覚悟をしていた』とするどい目を光らして苦笑した。」



 外務省の動向は
一、上海から北京、奉天を経由して蒙古、あるいは極東ロシアからモスクワ入りの「情報」に振り回された時期。二、フランス滞在が確認され、入独、入露を阻止する意図が図られようとする時期。
三、メーデーでの逮捕者が大杉栄と確認されてからフランス政府による国外追放と日本への船便の代金を立替え便宜を図る時期。

 以上の三つに分けられる。時として日本の新聞報道に、またそれぞれ現地の情報通による大杉栄の「偽」動向に振り回されているお粗末な情報収集能力が露呈している。たまたま現地コミュニストと接触した日本人活動家が当該地に居たのであろうか。

 大杉栄の中国内滞在、移動説に振回された要因は大杉本人と山鹿泰治、中国の同志たちが図った情報かく乱が成功した結果であろう。山鹿は回想で触れていないが、和田久太郎の証言が伝聞ではあるが江口渙の回想に記されている。(『続・わが文学半世記』青木書店刊、一九六八年)。
 同書の「那須温泉の冬」の項(一〇八、九頁)から関連記述をそのまま引用する。

「松の内がすぎた頃から東京の新聞のどれもが、大杉栄のゆくえ不明についていっせいに書きはじめた。上海に渡ったのだ、ともいう。北京に姿をあらわしたともいう。また、満洲にいったとも報じている。そして彼の目的はいずれ労農ロシアに潜入することにあるのだ、と、どの新聞も書いている。
 私はそのことについて和田久太郎にただして見た。はじめは笑うだけで、なかなか話そうとはしなかった。だが三日後の夜だったが、さもさも、この世の重大事件を、とくべつに打ちあけて聞かすのだ、というような顔つきをして、ついにほんとうのところを聞かせた。
 大杉はこの年末にすでに日本を脱出することに成功していた。来るべき三月にベルリンで開かれる無政府主義者の世界大会に日本代表として参加するためである。



法廷の和田久太郎
 (註・コロメルに大杉の名前を告げたのは小松清)

 まず上海に渡ってから、中国の無政府主義者の協力をえて、中国人になりすまし、うまく旅券を手に入れる。その旅券で船にのり、ひとまずフランスにゆき、フランスからさらに国境を突破してドイツに潜入する予定だ、というのである。そして大杉がハルビンや北京に姿をあらわしたとか、蒙古の砂漠を横断中である、とか、と、いう報道は中国の同志たちが、日本の官憲の追及の眼を混乱させるために、あちらの新聞社をとおして、ニセの電報を送ってよこさすためだと、和田は説明した。」

 大杉自身も『日本脱出記』(アルス刊、二三年十月、四五頁から四六頁)で触れている。
「上海に幾日いたか、又其の間何にをしていたか、と云ふことに就いては今はまだ何んにも云へない。ただそこにいる間に、ベルリンの大会が日延べになつた事が分つたので、ゆっくりと目的を果たす事が出来た。そして、その間に、日本では、僕が信州の何とか温泉へ行つたとか、ハルピンからロシアへ行ったとか、香港からヨオロッパへ渡つたとか、いや何処とかで補まつたとか、と云うふようないろんな新聞のうはさを見た。上海の支那人の新聞にも、さうしたうはさを伝へたほかに、ロシアから毎月幾らかの宣伝費を貰つている、と云ふやうな事までも伝へた。」

 

  
『日本脱出記』中扉

 外務省外交史料
 一部を紹介する。(引用の順番は発信の日付を基準にする。発信者ごとに書式は異なる。手書きが主であり、少ないがタイピングされた本文もある。件名は内容が同趣旨でも統一はされていない場合もある。随時本文を引用した翻刻文は仮名を平仮名になおした。判読不明文字は■、以下略は「…」とした。)
大正十二年一月九日 内務省警保局長 外務省通商局長殿 機密受 第四号
《特別要視察人に関する件、警視庁編入甲号特別要視察人 大杉栄》
「右の者大正十一年十二月下旬上海経由北京に入り更に入露せむとする形跡有り本人の北京其の他の滞在地に於ける行動御内偵方…」




大正十二年一月十二日 受信人 北京小幡公使 哈尓賓 山内総領事、在上海 松浦総領事 発信人名 内田大臣
《大杉栄の行動内査に関する件》
「大杉栄十二月下旬上海経由北京に入り更に入露せむとする形跡ある趣を以て同人の北京其他の滞在地に於ける行動内査方内務省より依頼有之候に付ては貴地に於ける同人行動御内偵の上御報告相成度此段申進候也」

大正十二年一月二十五日 山ノ内総領事発 第二六号 《片山潜と大杉栄との会合》 本文の主旨は知人某の電報を根拠にしている。

大正十二年一月二十六日 機密第二二号 在吉林 総領事 堺■■■ 外務大臣伯爵内田康哉殿
《大杉栄の赤化宣伝計画に関する件》

大正十二年一月三十日 機密第七七号 在支那 特命全権公使 小幡酉吉 外務大臣伯爵内田康哉殿
《大杉栄の行動内査に関する件》
「首題の件に関し一月十二日附往電欧機密合第八号を以て御来示の趣承本件に就ては一月十二日在哈爾賓山内総領事よりも内務省警保局……大杉は最近知多に入込む目的を以て北京に向ひたる由に付動静内報ありたしとの旨来電の次第も有之精精探査したるも当地に入込める形跡なきのみならす或筋より得たる情報に拠るに大杉は…欧州経由莫斯科に向ひたるか…近着の満洲日日新聞所載一月二十五日発東京電報として同人は現に阿部倉温泉に閑遊中との記事も有之本人最近の動静に関する確報に接せさるも兎に角其の後とも今日迄大杉か北京に入込める事実を発見し得さる次第に有之候右回報旁申進候也」

大正十二年一月卅一日 機密第二四号 在上海総領事 船津辰一郎 外務大臣伯爵 内田康哉殿
《大杉栄の行動に関する件》
「本月十二日附…当地を経て北京奉天を通過し目下入露の途上に在りと謂へる警視庁編入甲号特別要視察人大杉栄の当地滞在中の行動其の他に就き内査候…」「記 上海に於ける支那人共産党員等の間に往復を重ねつつありて現に彼と会見したりと云ふ者の言に依れは「陳独秀(上海共産党首領)一派の者と接近して入露の計画を為したる趣にて彼は曾て上海に平民大学創設の計画あるや同人等より同大学教授に招聘せんとて其の交渉を受けたることあり旁上海一般の状況視察の為渡来せりとの風評専らなりしか実は陳独秀を首領とせる共産党の招待に依りたるものにて当地に於て無政府主義者及エスペランチストを集めて……労農露国と提携力説一部の支那人無政府主義者は今や大杉は共産主義に転換変節したる者にて其の行為唾棄すへきものとなし大に憤慨し居れりと謂ふ更に大杉は……平民女学校に於て職員生徒に対し《社会主義と女権問題》と題する講演を為し同日商務印書館編集員胡愈之を訪問し其の紹介によりて論文を同館発行の雑誌に発表することを約し若干の原稿料を収受せし形跡ありしか翌二十九日北京に向け出発せり大杉の当地を出発するや之と相踵いて一月一日田口運蔵来■し翌二日急遽北京に赴きたるを以て彼等の間には何等かの密約ありしものの如く察せられ次て…就て内偵せしに大杉の行動を知り居る様推測せられるたるも具体的事実に関しては言を左右にして語らさりき…」

大正十二年一月卅一日午前十一時 受信人 在奉天赤塚総領事宛 発信人名 内田大臣
《大杉栄の行動内査に関する件》
「往電欧一機密合第八号に関し大杉栄は客年十二月下旬上海に赴き■■北京に滞在したる上貴地経由西伯利に赴きたる形跡ある趣を以て同人の行動内査方内務省より依頼ありたるに付…」

大正十二年二月四日 一七一〇 暗 山内総領事 哈尓賓発 后三、〇〇 内田外務大臣宛 第三九号 
《貴電合第二二号に関し(大杉栄行動内偵方の件)》
「大久保内務次官の内話に依れば大杉栄は昨二日莫斯科より当地に潜入したる片山潜と出会したる上労農代表「ポゴージン」を訪問したる模様ありとのことなり、目下所在探査中。(長春経由二月四日前十一時四十五分)」

大正十二年二月九日 受信内務省後藤警保局長 発信松平欧米局長
《大杉栄の行動内査方に関する件》

大正十二年二月十日 受信内務省後藤警保局長 発信松平欧米局長
《大杉栄の行動内査方に関する件》

大正十二年二月十七日 電受第二六九七号 暗
山内総領事 哈爾賓発 本省着 大正十二年二月十七日 後十、〇〇 内田外務大臣 第五一号
《別紙》
「大杉栄は本年五月二十日莫斯科に開催せらるる第三回共産党国際会議に出席の目的を以て本月十七日頃北京を出発する筈にて同人北行の際は当地「ドルコム」に立寄る筈なりと右聞知の侭在京公使、天津、奉天、長春へ電報せり」

大正十二年二月二十日 二八一六 暗 赤塚総領事 内田外務大臣 第三五号
《貴電第一一号に関し(大杉栄の行動内偵方)》
「十九日夜十一時京奉鉄道にて来奉「ステーション、ホテル」に投宿二十日朝六時急行列車にて北行したる支那服外套を着したる者大杉栄の疑あり尚ほ同人は当地出発に際し四平街行の切符を買求めたりとのことなるに付同人の行動に付結果長春の報告する様四平街警察署の電報せり」

大正十二年二月二十日 在満州里 領事代理 田中文一郎 外務大臣伯爵内田健康哉殿
《大杉栄入露に関する件》
「知多より帰来せる邦人の言に依れば大杉栄は蒙古経由知多に着し同地の共産学校に於て佛語を以て主義に関する講演を為し聴衆に感動を与へたる趣にして其後同人の莫斯科に向け出発したりと云ふ」

大正十二年二月二十一日 警保乙第九八号 内務省警保局長 参謀次長殿 外務省欧米局長殿
《特別要視察人に関する件 大杉栄》
「一月末 蒙古「ウエルフネウジンスク」より知多に赴き一週間滞在」




『二人の革命家』収載 広告


日本脱出記 2に続く

参考
2011年6月時点で古書サイト「日本の古本屋」ではアルス版が初版も含め13の古書店の所蔵がデータ上で確認できる。

他にはアルス版全集、そのリブリント版で世界文庫版、現代思潮社版が検索でアップされる。
岩波文庫版の『自叙伝・日本脱出記』も検索でアップ。

新刊としてはリンク・土曜社版(ペーパーバック)『日本脱出記』がこの春に刊行されたばかりである。
 <註 刊行書の当該サイトのURLに漢字が含まれるので直接のリンクがはれません。同社のトップサイトあるいはブログからアクセスしてください)
 

第二章 「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を読む 

ラサンテ獄中詩濃い
第二章 「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を読む 

 

「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」は『改造』の一九二四年六月号に掲載された。画家林倭衛による大杉栄のフランス滞在時のドキュメンタリー記である。一九二三年、林は大杉栄とリヨン、パリで多くの時間を共に過ごした。大杉からの手紙を含む五万字余の報告記は林による大杉栄への長大な追悼記である。
 大杉が虐殺されて半年余の時期に発表され、まだ関係者に影響が及ぶことを考慮し詳細な描写を避けている箇所もあるが、林自身と大杉を中心に滞在中の日々が詳細に語られている。
 一九七〇年代に初出誌の『改造』を入手し黒色戦線社の大島英三郎さんに存在を伝えたが復刻版刊行に至らなかった。同時期に提供をした関連文献は復刻されている。





「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」に着目した松本伸夫は『日本的風土をはみだした男 パリの大杉栄』(一九九六年、雄山閣)を著した。松本伸夫は東京外語大仏文科を卒業、毎日新聞記者時代にパリ駐在員を経験、新聞社を離れた後は作家としてパリと日本人の関係をテーマに取材と著作を続け同書は二冊目の単行本となる。
 同書では大杉栄の思想にもひかれた著者が「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を軸にパリの大杉を再現しヨーロッパ、フランスの社会状況も含め時代状況を語っている。また林の友人で当事パリに滞在していた画家青山義雄に取材を行い、青山がラ・サンテ刑務所の大杉栄に差入れをしたことを初めて明らかにした貴重な記述もある。
 松本によると、青山は一九一八年一月、林に大杉と伊藤野枝を紹介され『文明批評』創刊号に挿絵を描く相談をしたという。

 しかし松本は「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」に登場し、かなりの時間を林と過ごす在フランスの井澤と鴨居という「毎日」新聞の「先輩」記者になぜか関心を寄せていない。林は頻繁に名を挙げているが松本は名を出さず「二人の記者」としか表現をしていない。林が井澤記者に大杉のフランス滞在を告げようとする箇所では誤読もある。また小松清の「青春記」も参考にしているが、大杉との関連を表面的にしか把握していない。

 『トスキナア』創刊号に小松清の評伝である『小松清 ヒューマニストの肖像』林俊、クロード・ピショワ(一九九九年発行、白亜書房刊)の紹介をした。同書から小松清の未発表自筆原稿「エゴイスト」の存在を知った。再引用をすると「彼(小松)と大杉とのリヨンでの出会いが描かれているという点では、彼の『青春記』とよく似ている。だが、『青春記』に登場する人物がすべて仮名であるのに対して、この作品では、大杉、林(倭衛)、胡(フランス滞在の中国のアナキスト)、および彼自身と、すべて実名で書かれている。その内容においても『青春記』と比較して格段にリアルである。」という内容であり、林の「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」と対をなす。大杉がフランスに来たきっかけは小松が「コロメル」に名を挙げたからである。
 
 大杉の評伝でフランス滞在に頁を割いている著作は他に『大杉栄 自由への疾走』がある。著者は鎌田慧、一九九七年に岩波書店から刊行されているが、同書では小松清の作品に触れていない。
「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を掲載をした『改造』六月号は他にどのような論文、作品が掲載されているのだろうか。目次から主たるものをあげておく。

「無産政党は必ず出現す」。巻頭言として書かれている。特集は「東洋人聯盟批判」。安倍磯雄、小川未明、アールビー・ボース、平林初之輔、秋田雨雀、千葉龜雄、生田長江らが執筆。創作のパートは山本有三、中條百合子、正宗白鳥、菊池寛らが執筆をしている。

 林は「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を執筆するにあたり自身の日記から再現したのであろうか。林の滞在地はパリ、リヨン、マルセイーユ、エスタックと大杉と同行、時に離れて滞在地は移る。各章に見出しはついていない。各章の概要をあげる。
 一章、林は大杉が二月十三日にマルセイユに着いていたことを回想し、その時、林はルセーユに近いエスタックという海辺の小さな町に居た
 二章、大杉と会う。日本での大杉との出会いを述べている。大杉の来佛を井澤記者に伝える。
 三章、三月上旬、巴里で大杉の宿を探す。モンマルトルの宿になる。
 四章、モンマルトルでの生活。大杉は三月十七日に巴里を離れリヨンに向かう。
 五章、リヨンでの中国の同志との交友。
 六章、大杉とマルセイユで同じ船に乗船をしていたマダムNに会い行く。林はアンチーヴに行く、大杉から手紙が届く。
 七章、林と小松清がバルビュスに会いに行く。
 八章、林と大杉は二十日ぶりに会う、二人はリヨンで中国の同志Jの家で食事をとるようになる。大杉は『改造』誌に原稿を書き、林が代わりに送る。後に近藤憲二により『日本脱出記』としてまとめられるうちの一章である。
 九章、林は巴里に出る、大杉からの四月十九日付け手紙を掲載。井澤を大杉に引き会わせる。
 十章、四月三十日、巴里、大杉は東京日日新聞に掲載の原稿を書く。
佐藤紅緑と林、大杉の三人で巴里の歓楽街での一夜を楽しむ。大杉のメーデーでの逮捕。佐藤は後年『文藝春秋』誌にこの時の交流を描く。
  十一章、林の大杉に対する救援活動、裁判。
  十二章、林は大使館へ問合せをする、マルセイユでの大杉との別れ、箱根丸大杉からの手紙 中国人同志Jの追放されたという消息が述べられる。

 本文全体は『改造』の四七頁分であり、これまでは『未刊 大杉栄遺稿』安谷寛一編(一九二八年、金星堂)にしか全文が再録されていない。両文献とも入手し難いので、林と大杉が絡む箇所を中心に本文テキストを部分的に転載して行く。頁数は『改造』誌。




大杉栄自筆原稿  『大杉栄全集』第三巻
 
 一章 八九頁 
「二月十三日、この日大杉はフランス船のアンドレ・ルボンに乗つて馬耳塞港に着いた、と、彼はその手記『入獄から追放まで』に書いてゐる。」
 林は大杉がマルセイユに上陸をしたことを知らなかったと回想。その日の描写から始まる。
「前年の十二月中旬、巴里を立つて、その時マルセーユに近いエスタツクと云ふ、海邊の小さな町に居た。最初マルセーユに宿をとつて、その邊を物色して歩いた後ちエスタツクを見つけた僕たちは、充分満足して、そこへ荷物を運んで行つた。」
 九〇頁「Mは僕より先にフランスに来てゐたが、巴里を離れたことがなく、これが初旅だつた。」
「そこへこれも画家の前田嘉三郎が、この近くを旅してゐたと云つて、飄然としてやつて来た。」
 九一頁「恰度その日の夕方巴里の井澤弘から明朝十時マルセーユに着くと電報が来た。これは豫じめ分つてゐたのだが、彼の来かたの遅いのを僕はもどかしがつてゐたのだつた。井澤の電報を見ると元気づいて、その夜は前田とMと三人で海岸に列んでゐるカフエに行つて酔ふまで酒を呑んだ。それが二月十二日だ。」
「馬耳塞驛のプラツト、ホームで、車窓から首を出してゐた井澤を見つけた時、これで助つたと云ふ気がした。井澤は大阪毎日記者の鴨居と同行だつた。彼等はこれから伊太利の旅に出掛ける途中だつたが、僕のところへ寄つて二三日休養して行きたいと、マルセイユに下車したのだ。」
 九二頁「この日大杉が馬耳塞に上陸してゐようなどゝは、夢にも思ふ筈もなく、妙らしくいゝ気持になつて、ひとり饒舌り散らした。」

二章 九四頁「もうとうに伊太李の旅に立つたものと思ひ込んでゐた、井澤と鴨居が飄々として現はれた。」
 そして林はエスタックに戻り大杉の手紙を受取る。
「ひとつの軽い封筒を開けて、そこに書かれた文字を一目見て、僕はハツとした。その手紙は──。
 僕もやつて来た。
 けふ──街へ行つてYに会つた。君が四五日中にこちらへ来ると云ふようなうはさだそうだ。若し本当ら大至急やつて来ないか、若し又君が来られなければ、僕の方から行く。尤も今直ぐと云ふわけには行かないが。
 最近に伊藤から君にあてゝはあるが、実は僕にあてたものなのだ。
《僕の来たことは絶対秘密。 栄》
 この後とへ彼の支那人としての名と、アドレスが書いてあつた。
  略
彼は又とない僕の親友だ。
それだけに歓びも大きい。
──初めて、大杉を知った時から、僕が日本を去るまでの永い間の事は、今こゝに書かないが、たゞ一し言、云つて置きたい。──
 彼と初めて知りあつたのは、恰度十年前になる。その頃、彼は荒畑君と共に最初の近代思想を出し、大久保の住居で極く内輪同志のセンデカリズム研究会をやつていた、……略……
 その後二年ほども経つて、僕が絵を描くようになつて、自然それまでの同志とのつき合も疎遠になつて来た頃から、以前のように同じ主義、同志と云ふ意味を寧ろ除いて、却つて彼との交わりは深くなつて行つた。──」
 林が大杉と出会ったのはサンジカリズム研究会の時期であり、『近代思想』を刊行していた。
「エスタツクの往復の途中、僕は井澤を選んで同乗した。大分話が溜つて居たからだつた。そして帰へりの車中で、僕はそつと彼に大杉の来た事を漏らした。無論『絶対秘密』なんだが彼には包んで置けなかつた。二人で色々と話して見たが、大杉がどう云ふ風にして日本を脱けて来たものか分らなかつた。いつも乍らだが彼の斯くうしたやり口、特に今度の手際には、ふたりで感歎したものだ。」
 林は井澤と親密であり大杉の来フランスを打ち明けた。井澤は日本でも大杉と面識があった。
 九六頁「アンチーヴから一緒に来て貰った、ピエールの事を忘れていた。」「巴里の方を一二日延ばす事にして、直ぐ大杉へは電報を打った。」「夕方から鴨居も誘つて五人で日本料理屋へ行つた」。「アンチーヴ行の汽車に乗ったのは一時過ぎていた。」「もう夜が白みかけていた。」「その日の午後一二時の列車でマルセイユへ向かう。」「翌日、午後七時の特急で巴里へ立つた。」「朝七時に巴里に着く。」「大杉の宿の方へとタクシーに乗つた。」
 林の行動もかなり成り行きのところがある。

 三章 九六頁「三月上旬とは云ふものの巴里はまだ冬の姿そのままだつた。」
 九七頁 林は巴里廿区で大杉の宿を探す。木賃宿で大杉との再会をする。
「戸を叩くと、内側から『──ハヤシ?』まがいもなく大杉の声だつた。
『──よくやつて来れたなァ、君が来るとは──何にしろ思ひがけない事だつた、』
『その事ならずつと前に、話しだけは鳥度きいていたよ、何んでも昨年の夏頃だつたか、君と岩佐作太郎君に勧誘状を出したと、その頃リベルテールへ出入りしている男からきいては居たが、どうせ来られやしまいと思つたので、気にも留めずに忘れていた。第一旅券が下りつこないと思ふからね』」

九八頁 伊藤野枝からの手紙が大杉に手渡される。林宛に届いていたが、その内容を理解できなかった。くしゃくしゃにしてしまった手紙を渡すと大杉は「洗面器に水を湛へ、手紙を片方から段々に水に浸し乍ら読んでいた。」
伊藤野枝からの手紙は官憲に万が一渡ってしまつた場合を考え、簡単に読めないように記述を工夫していたようだ。岩佐作太郎も招請がされていたようだが、岩佐は回想で触れていない。二人はモンマルトルに移る相談をする。



大杉栄のラサンテ刑務所におけるメモ  『大杉栄全集第三巻』

 二人はレパブリツク広場に出る。宿を探すのを画家のYに頼むことにしてYの住居へ大杉も一緒に行く。筆者も一九八六年と八八年にフランスのアナキスト連盟が運営している書店を訪ね、十一区にある地下鉄リパブリック駅から同広場に出て至近の距離の書店へ向かったことがある。また同広場に面した同聯盟が運営していた古い劇場でレオ・フェーレのライブコンサートを聴いた経験をもつ。 
 九九頁 「遠い道程を、Yの住居に行つた。」「Yは日本に居た頃、僕の紹介で二三度大杉に会つていた。」
巴里の林のアドレスがYの処になつていた関係から、最初大杉はYを訪ねて林の行く先を知った。そしてYが新たな宿を探すことになり林と大杉は木賃宿に荷物を引取に行く。当初、中国の同志のJと自炊生活をしていたので道具もあったが、カフェの道具は引き続き持って行くことにした。林はたまたまラ・サンテ刑務所の近くにある画室で「今も使つている」と回想をしている。

 四章 モンマルトルでの生活が一〇一頁から一〇二頁にかけて記述される。 中国の同志との交流も描写されている。
「その頃巴里郊外の工場で労働し乍ら、その余暇で謄写版印刷の『工餘』と云ふ無政府主義の雑誌を出していた。若い支那人のLがちよいちよい大杉の処へ尋ねて来ていた。」 
一〇三頁はリヨンでの記述になる。
「昼も夜も二人でたゞ遊び暮らした。そして少し尠し飽きて来た頃だつた。日本の方から大使館宛で、僕の行動、素行を至急取調べろと云ふ電報が、既に三週間も前に来ていたが、大使館では別に取合つていないと云ふことを或る処から聴きこんだ。要するに僕を調べれば大杉がフランスに来ているか、居ないかは判明する、と云ふ日本当局の見込なんだ。この場合大使館が日本からの訓電に拠つて取調べやうとしなかつたことは有難かつた、が、この頃は例の大会が四月一日から伯林で開かれる筈になつていた時で、彼はそれ迄に独逸に行かなければならなかつた。まだまだ巴里で見つかるには少しばかり早かつた。」
 
 大杉と話をしているうちに林もベルリンへ一緒に行くと云う話が浮上する。
「つい僕も里心が出て一緒に行きたくなつた。伯林は前後四回に亘つて七八ヶ月暮らした処ではあるし、どうせいい加減だが言葉だつて、他かの事にしろフランスに居るより慣れていた。そして又伯林で大杉を案内してやりたい気も起きて来た。『僕も一緒に行かうか』と云ふと『うん行かふ』と云ふ返辞だ。伯林で大会に出席すれば、必らず其処で捕まる。彼はそう思つていた」
「『僕が捕まれば君も巻添を喰つて捕つたうへ追放になるが、そいつは鳥渡まづいな、尤も捕まるとしても最終日だらうから、その日君は僕と居ない事にしたら大丈夫だらう』などと云つていたが、僕も迂つかり捕つて追放など喰ふのは有難くないと思つた。彼もひとりで独逸入りをするより僕と云ふ連れがあつて行く方がいゝと思つたにはちがいない。併し最後の捕つたり、追放になつたりする事を考へると、矢張りひとりで行く方がいゝと思つたやうだ。」
 大杉はパリのアナキストたちの事務所に寄る。
「『リベルテール』へ行つたところ例のマダムから大杉への手紙が届いていた
このマダムと云ふのは彼の『入獄から追放まで』の最初の方に書かれてある、彼と日本から同船して来たマダムNと云ふロシア婦人だ」
 そして、伯林の大会が延期になつた事、リヨンからカルトディダンテイテがもらえるという便りが来ていたことが語られる。
 林は「これは僕が巴里へ出て来て、彼と一緒になつてから恰度二週間目の三月十七日だ。」と結ぶ。



林倭衛

 すでに三月十五日頃から二十二日までの間に大杉栄と林倭衛の行動は把握されていた。前号で紹介をした外務省史料の三月二十二日付け外交文書に中国旅券で三月五日に上陸し、大石七分、林倭衛と「交通」をし後者は常に同人に随伴せり……と報告がされている。上陸の日付は間違った情報であるが、林倭衛との交友は把握されている。
 前述の林が知人から得た情報として「日本の方から大使館宛で、僕の行動、素行を至急取調べろと云ふ電報が、既に三週間も前に来ていたが、大使館では別に取合つていないと云ふことを或る処から聴きこんだ。」
「要するに僕を調べれば大杉がフランスに来ているか、居ないかは判明する、と云ふ日本当局の見込なんだ。」「この場合大使館が日本からの訓電に拠つて取調べやうとしなかつたことは有難かつた。」

 外務省の該当史料を引用する。 
大正十二年三月廿二日 四二七二 暗 巴里発大正十二年三月廿二日后一、三〇 本省着大正十二年三月廿三日前、一一、三〇 内田外務大臣 松田代理大使 第二〇八号
「大杉栄は支那旅券を帯有して香港より佛国汽船に乗船し三月五日頃馬耳寒に上陸後阿部の仮名を用ひて密かに巴里に滞在せり、当地に於ては■社会主義者の会合に臨席したる如きも特に同主義者有力者と往来せる形跡なし予て御通知の要視察人大石スチブン及林シヅエと交通し後者は常に同人に随伴せり本月十五日巴里発林を帯同し同月十七日より「フランクフルトアムマイン」に開会の無政府主義者大会に出席の為赴けり同人は入露を目的とせるもの如既に同国にある片山と連絡を取り経路は伊、墺国を経由するか或は独逸を経由するか目下処不明なり本電英、独、及馬耳塞へ転電し前記貴電と共に伊、墺へ郵送せり。」





 
 林は大使館から直接の聴取は無いということで楽観をしていたが、林の周辺から情報は伝わっていたようだ。ベルリンに同行をする話まで把握をされていた。
 林は大石七分の名を記述をしていないが、イニシャルで登場をさせていたのではないか。
                             

大杉栄・日本脱出記  2 第一章 大杉栄の「日本脱出」と外務省史料、「東京日日新聞」記者との会見・続

日本脱出記大杉栄・日本脱出記  2 第一章 大杉栄の「日本脱出」と外務省史料、「東京日日新聞」記者との会見・続

大正十二年二月廿二日 本省着 大正十二年二月十七日 後十、〇

〇 在ハルビン 総領事  山内四郎

外務大臣伯爵 内田康哉殿
《高麗共産党員に於て大杉栄歓迎準備に関する件》
大正十二年三月十五日 機密第二四七号 在支那 特命全権公使 小幡酉吉 外務大臣伯爵内田康哉殿
《大杉栄の最近の行動に関し報告の件》
「…三月十五日信すべき某筋より得たる極秘情報に依るに大杉は事実当地に潜伏し居る模様なるに付…」「該情報の内容詳細は左掲の通に有之候」「大杉栄は秘かに上海より当地に入込みて一支那人宅に潜伏し主として学生方面と連絡し殊に北京大学関係学生と交際し居れり未た具体的飛躍を見さるも学生の外支那人同主義者とも連絡し北京大学講師たりし盲目露詩人より会て紹介を受けたる露国人とも往復し居れり尚彼は王正延の助手《幕下》と称する北京大学出身一支那人の宅に於て三月十一日夕開かれたる東三省学生旅大回収問題会議に出席せる事実あり其際に於ける彼の形相は顎鬚茫々、強度の近視的眼鏡を附け外見四十幾歳、背を屈め如何にも不健康にて肺患者に彷彿たる姿なりき尚彼は右席上温暖の候を往ち京奉線にて奉天に赴くへしと語れりと」



大正十二年三月廿二日 四二七二 暗 巴里発大正十二年三月廿二日后一、三〇 本省着大正十二年三月廿三日前、一一、三〇 内田外務大臣 松田代理大使 第二〇八号
「大杉栄は支那旅券を帯有して香港より佛国汽船に乗船し三月五日頃馬耳寒に上陸後阿部の仮名を用ひて密かに巴里に滞在せり、当地に於ては■社会主義者の会合に臨席したる如きも特に同主義者有力者と往来せる形跡なし予て御通知の要視察人大石スチブン及林シヅエと交通し後者は常に同人に随伴せり本月十五日巴里発林を帯同し同月十七日より「フランクフルトアムマイン」に開会の無政府主義者大会に出席の為赴けり同人は入露を目的とせるもの如既に同国にある片山と連絡を取り経路は伊、墺国を経由するか或は独逸を経由するか目下処不明なり本電英、独、及馬耳塞へ転電し前記貴電と共に伊、墺へ郵送せり。」

大正十二年三月二三日 受信人名 後藤警保長 発信人名 松平欧米局長《大杉栄の行動に関する件》

大正十二年三月二十九日 機密第一五四号 在ハルビン 総領事山内四郎 外務大臣伯爵内田康哉殿
《大杉栄と朝鮮に関する件》

大正十二年四月十四日 在支那 特命全権公使 小幡酉吉 外務大臣伯爵内田康哉殿 機密第三六三号
《大杉栄の行動に関する件》
「其潜伏の場所も今に判明せさる処一方近来当地新聞紙上大杉来京の記事散見せらるる為支那警察側の注意をも喚起し京師警察庁機要課より大杉の写真の有無を我警察署に問合せ来りたるに付新聞紙所掲の写真を交付せしめたるに警察庁は■を複写し密偵に配布し且毎日郵便局に員を派して大杉等社会主義者輩の通信を検閲する等近来支那側の探査振りも相当厳重を加へたる模様なるも是又今に大杉の所在を確かむるに至らさる由に有之候尚今後共支那側と連絡を取り彼の行動内探を怠らさるへきも不取敢此段及進報候也」
写送付先 在上海在哈爾賓各総領事

大正十二年四月十九日 五六九三(暗)松田代理大使巴里発后六 本省着大正十二年四月二十日后二 内田外務大臣 第二八三号
《往電第二〇八号に関し(大杉消息)》
「大杉栄の「フランクフルトアムメイン」に於ける主義者大会参列は仝会合の招請に基きたる趣なる処仝人所持の支那旅券に必要の査証を取付けることの得ざりし故を以て同会へ参加することを得ず其侭佛国に滞在し居たるも所持金欠乏し■■生活に窮し来りたる尚既報の上海■■主義者との関係を辿りて里昴に滞在支那学生として保護を受け居れり仄聞する処に依れば■■(大杉)に於ても支那側の手先となることは潔しとせ■処なるのみならず佛支学会の保護を受たることも一層危険の処なり且今回砥渡欧の目的も各国主義者との連絡に非ずしも単に研究視察に止るものの如く目下入露を断念し近々独逸内に開かれるべき無政府主義者大会へのみは万難を排しての出席の覚悟なね趣にて同会終了の上は帰郷の希望を有する由なり目下在独日本人知人訪問無く金策を兼ね独逸へ入国の為再び支那旅券に所要の査証取付方を試み居れるが既に仏国官憲よりも不審なる人物として注意せられ居るやにて査証を得ること頗る困難なるに付■■海外旅券の交付を受けたる趣■■同人知人より特別の詮議ありたる旨願出の次第あり就ては同人に対する今後の処置に戴き至急付回電を請ふ独逸及里昴へ暗送せり。」

大正十二年四月廿八日午前十一時 受信人在佛松田代理大使 発信人名内田大臣
二二一号件名《大杉栄の海外旅券に関する件》大杉栄の入独を極力阻止という主旨。

大正十二年五月一日 六二〇〇暗 巴里発大正十二年五月一日后六、三五 本省着大正十二年五月二日前一〇、一五 内田外務大臣 松田代理大使 第二九九号
「佛国滞在中の大杉栄は五月一日万国労農祭に際し巴里に集会する社会主義者会合の席上に於て日本の仝主義者を代表して一場の演説を試むることとなり右演説の要旨は当地滞在中の東京日日新聞記者井澤某に依りて密に本邦に報道せらるることに仝記者と大杉との間に打合済なる趣なり、仝人演説の要旨は当方に於ても注意の上判明次第要報すべきも右聞込みの儘不取敢申進ず(了)」

大正十二年五月二日 六二五八暗 巴里発大正十二年五月二日后五、三〇 本省着大正十二年五月三日前一〇、三〇 内田外務大臣 松田代理大使 第三〇一号
《往電第二九九号に関し(大杉栄演説に関する件)》
「当地新聞報に依れば一名の日本人五月一日午後巴里郊外サンドニに開かれたる労働者の集会に於て演説せんとしたる際警察より身分を証明する文書の提示を要求せられたる処右文書を所有せざりしを以て直に警察署に拉致せられたり…」

大正十二年五月二日六二七六暗 巴里発大正十二年五月二日后六、一〇 本省着大正十二年五月三日后五、五〇 内田外務大臣 松田代理大使 第三〇二号
《往電第三〇一号に関し(大杉栄演説に関する件)》
警視庁に問合せたる処右日本人は支那人Tun Chen Tong と自称する由なるも里昴chemin de toill に住居したる趣なれば或は右は大杉が旅券の関係上偽名せるものかと察せられ里昴へ転電せり。

大正十二年五月二五日 七五四二 暗 巴里発大正十二年五月二五日后五、三五 本省着大正十二年五月二六日后一、三五 内田外務大臣 杉田代理大使 第三五五号

「大杉栄五月二十四日国外追放の言渡を受け即夜巴里発馬耳塞に護送せらる同人今後の動静に付ては菅領事とも連絡を執り判明次第直に電報すへし同人追放に先ち警視庁より旅券を所持せざる外国人は何れの国も入国を拒絶すへく又佛国の法律上一度追放せられたるに拘らす再ひ帰来せるもは厳罰に処せらるるを以て大杉の如く曾て所持したる支那旅券は里昴の警察に押収せられ目下全然旅券なきものは何時迄も佛国官憲の厄介にならさるを得す就ては佛国側の迷惑も諒とせられ旅券発給取計はれたしと懇請の次第ありたるも電第二二一号御訓令の次第もあるを以て体能く之を拒絶し居る次第なるも同人の為め此上更に外国官憲に迷惑を掛けるも好ましからされは成るへく速に帰国せしむる方与えへく日本迄の旅券を発給し深く将来を戒めて出立せしむることと致したく右は内務省藤岡書記官の意見も徴したる上特に申進する次第に付何分の義至急御回訓相仰きたし」


大正十二年五月二十六日 七五八四 暗 巴里発大正十二年五月二十六日后三、四〇 本省着大正十二年五月二十七日前八、五〇 内田外務大臣 杉田代理大使 第三五八号
《往電第三五五号に関し》
「二十五日大杉馬耳塞領事館に出頭最寄便船にて帰朝したき考えるが右手続に関し何等の援助を得たき旨申出たる趣管領事より当方に来電あり就ては前記往電の次第御詮議の上至急仝領事へ何分の御電訓ありたり当方へも転電ありたし(了)」


大正十二年五月廿八日 暗号 発電大正十二年五月廿八日午後五時二十分 発電番号三八九四
受信人名 在佛 松田代理大使 発信人名 内田大臣 第三〇六号
《大杉栄に対する旅券発給差控方に関する件》
「省電第三五五号及第三五八号に同し帝国臣民にして帰朝せんとする者は日本船に依る場合は勿論外国船に依る場合と云えども別に海外旅券を必要とせさる義に付大杉に対し旅券を発給することは差控」

大正十二年五月二十九日 七七一〇 暗 巴里発大正十二年五月二十九日后一〇、二〇 本省着大正十二年五月三〇日后二、三五 内田外務大臣 杉田代理大使 第三六三号
《大使発馬耳塞宛電報第三九号大臣発大使宛第三〇六号に関し(大杉旅券の件)》
「大杉に船賃用意なきは勿論当地の友人等に於ても才覚覚束なきやに察せらるる処船賃は本人帰国の為是非必要に付乗船迄に時日あらば本省に御請訓然るべし若し其の時日なくば当館の機密費を一時流用し本省の追認を仰ぐべく貴官に於て本件御取計上の御参考迄に電報す。」




大正十二年六月二日 七八四二暗 馬耳塞発大正十二年六月一日后二、四〇 本省着大正十二年六月二日前一〇、〇 内田外務大臣 菅領事 第一二号
《本官発在佛大使宛電報第一四号貴電第三九号に関し》
「大杉の申立る処に依れば船賃は本邦よりの送金等に依整ふへき見込なる趣にして当館としても成る可く本人に工面せしめたき考なる処既に来る二日出帆の箱根丸に乗船し得る様手配済にして且万一船賃不足の為出発叶へとする当国官憲に更に迷惑を掛けることと相成るへきに付右用意として英貨百磅御送附相成度し」

大正十二年六月三日 七九三九暗 馬耳塞発大正十二年六月三日前一〇、一五 本省着大正十二年六月四日前八、一五 内田外務大臣 菅領事 第一四号
《貴大臣発在佛大使宛電報第三〇六号に関し》
「大杉は三日箱根丸にて無旅券の儘帰国の途に就けり尚同人二等船賃は巴里よりの送金にて立て替換置けり在佛大使へ転電せり。」

本文はここまで。


アルス版表紙裏 「仏蘭西追放状」とキャプション




コラム・内閲と検閲

初版 18,19頁

 出版法による検閲は出版物を印刷製本した後、発行の三日前に納本し事後検閲を受けるという制度で出発した。しかし実態はゲラ刷りの段階で内々に見てもらう内閲が慣例化し、「内閲制度」になった。
                       (参照 『検閲と文学』1920年代の攻防 紅野謙介 河出ブックス2009年)
 さらに「内部検閲」として、かつて削除処分を受けたか予め削除されると予想される語句を発行者が編集により、通常は伏せ字分を「××」として活字を組む自主規制が行われた。「自主」削除した文字数と×の数を同数としたかは検証が必要である。
 ××以外の活字潰し(活字表面をヤスリで削ったような痕跡)、そして空白(活字を抜いたママ)或いは……(何行削除と記し……記号を組み込む)の箇所はゲラ刷りを提出した内閲時に削除の指示があった箇所と推測。
 大杉栄の著作でいえば結局は発売禁止処分を受けた『労働運動の哲学』は活字潰しが散見される。また初版と重版では削除頁の異動がある。(リンク頁の画像の同書2,3頁の一部の活字は潰されて印刷)。
 アルス版の『日本脱出記』は画像をアップしたように初版と60版では同頁の、おそらく内閲後の処理が異なる。
初版では…を組み直す時間が無く活字を抜いた空白のママである。60版ではすでに処分を受けていたので削除の行数を記し、…の記号活字で組み直している。
 活版印刷の紙型が耐え得る刷り部数は何部であるのか。1,000部程度という説もある。



土曜社版『日本脱出記』凡例

『日本脱出記』の初版と重版の18,19頁の画像。

初版 


初版奥付



60版



『大杉栄全集』 頁組みが異なるので本文のずれがあります。


土曜社版『日本脱出記』26頁



初版


60版


『大杉栄全集』



土曜社版『日本脱出記』27頁


初版

60版 18,19頁


『大杉栄全集』続きの頁


リンク 
『1920年、大杉栄を上海へ誘った 「コミンテルンの密使」は李増林か李春熟か』



土曜社版『日本脱出記』 カバー



















「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を読む  其の二

日本脱出記

「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を読む  其の二



五章
一〇三頁。「翌朝、未だ夜の明け切らぬうちに汽車はリヨンに着いた。リヨンは僕には初めての土地だつた」。郊外へ外れかかるところの長屋風の家の前で大杉が車を停めさせ、二階の長い廊下を渡り突き当たりの戸を叩く。「これが支那の同志Jの住居だつた」と林倭衛の描写が始まる。
「『やあ帰りましたね。さあさあ』と彼は日本語でこう云うと、僕達をその室へ案内した。Jの容貌は日本人そっくりだった」

一〇四頁。続けて「彼は色褪せた詰襟の服を着て、松葉杖を持っていた。」「彼の日本語は完全とは云えなかったが、中々巧いものだ、普通の用事はそれで充分に事と足りた。日本に六年間留学していたが、日本を去ってすでに六年、その後日本語を使う機会がなかったので、あらかた忘れて了いましたと云っていたが、それにしては立派なものだった。」「彼はリヨンの中法学院にいる無政府主義者中の領袖株だった。」「彼の細君は支那の無政府主義者として有名だった、師復の妹だ。」と身元を推測させる記述になる。そして大杉が泊まっているホテルに向かう。
一〇五頁。散歩に出て堡塁跡の草原に寝転び、大杉はJの仲間の話を林にする。「支那の無政府主義者と云うのはどっちかと云えば、人道主義者と云った方がいい位なんだ。もともと彼方の方は人道主義から出発しているんだよ、いまにいたっても夫れがちっとも抜けていないんだよ。兎に角、日本のなどとは大分趣が異っている。」
 昼近くになり近くの中華料理店に行き、Jの仲間四、五人と合流する。最後に仲間は合わせて十人になり昼食会が始まる。日本語を話すのはJだけで、フランス語を話すUが大杉と頻りに話す。大杉は警察に寄りカル・ディダンティテをもらう。
 大杉はJと古本探しに行き、林は中国の無政府主義者たちに案内され美術館見学に行く。一人が審美学を専攻しているので詳しく説明をするが、林はフランス語が判らず退屈する。
 林と大杉はその夜十二時の汽車でマルセイユに向かう。

六章
 マルセイユに着いた大杉はマダムNを探す。郊外の別荘地に滞在しているNと再会をする。Nは「井上さん」と大杉を呼ぶが大杉は本名も経緯もNに伝えている。食事会でのマダムNの話が続く。Nは大杉に「革命家なんか止めろ」と云う。
 一〇八頁。林は翌日午後三時の汽車でアンチーヴに向かい、大杉もその夜のうちにリヨンに帰る。
 二、三日して大杉から林宛に手紙が届き、さらに二週間の間に続けての来信を記し、林は全文を掲載している。
 三月二一日付け。林倭衛宛「……マルセイユはいやな処だ。…僕はこれで、外国人とは二度目のプラトニックだ。がプラトニックはもういやだ。バルルタバランのダンスーズの方がよっぽどいい。二十日午後八時。今リオンに着いた。又あの色っぽい女の処にでも当分いよう。二一日朝。」
 三月二六日「……ドリイ、僕のダンスーズだ、にも、たいくつまぎれに(と云い訳しないとやはり気が済まない)ふざけた手紙を出しておいた。僕は本月一ぱいここにいる。そしてもしヴィザが貰えなければテクで行く。それまでにはこっちへ来られまいなこの三日ばかりいい天気になってほんとに春らしくなった。。が、病気だったり、殊に文なしだったりした日にや、春も女もへちまもない。二六日。
 僕はまだ見ない。君はまだものにしない、そして恐らくは二人とも永久にまだまだであるだろう。何んとかマドムアゼルによろしく」。大杉は林との手紙にマダムNのことを書き遥か日本を離れて旅先の無聊を伝えている。
 三月二八日付け「……ヴィザの方 は、きょうのパリからの手紙によると、警察の証明がありさえすれば、貰えそうな形勢だ。…うまく行って出発は来月の十日頃だろう。……風も腹もほとんどよくなって、きょうは起き上がった。が、まだフラフラする。今度は早く財布の病気をよくしなくっちゃ。二十八日」。この頃はまだヴィザが出ることに対して楽観的である。
 三月二九日付け「…学校から君の二通の手紙をとどけてくれた。……パリからの返事を待っているうちに、それもまだ来ないんだがね、思いがけなくウチから金を送って来た。……それで、それが受取れたら、僕はすぐまたパリへ行くかも知れない。そして都合ではベルギーからオランダへ出て、さらにドイツにはいることになるかも知れない。そうなれば、それからオオストリ、スイス、イタリイと大旅行をして来る予定だ。……」
 三月三一日付け「K(註・小松清)の方に金が来んでは、お互いに思いがけないところで助かるね。僕の方もきょう漸く金が受取れた。今晩は一つ、久しぶりでウンとうまい御馳走でも食おうと思う。僕はパリへ送ったパスを送り返すように言ってやったんだが、それがまだ着かないので、そして明日は日曜、明後日は祭日と来ているので、早くとも三日にならないとそれが受取れそうもない。それが来るとこんどはそれを持って、こっちの警察へヴィザを貰いに行くんだ。そしてもしドイツ行がうるさければ、ベルギイ行きにする。それからあとは又あとの事だ。すると、まだ、ここを立つのは四、五日後になりそうだ。約束なんか破ってそれまでに来いよ。三一日、」。大杉も林も同時期に金を得ることができ一安心し、ドイツへ直接行けなければベルギーなどを経由する手段を考え始める。
 四月二日付け「……僕は日曜のいい天気に田舎へ行ってうんと遊んだので、暫く寝ていて変になったからだがすっか回復した。きょうもまたうんとやれそうだ。バルビユスの肖像がうまく行くといいがね。僕もバルビュス(共産党)とアナトール・フランス(共産党から除名された)とロマン・ローラン(先づ無政府主義)との三人に会って、三人の比較評論を書いて見たいと思っているんだが、それには三人の本を大ぶ読まなければならんのでまだいつのことになるか分らない。パリからまだパスが来ない。……火曜二日」。次章の林のバルビユス訪問記に先立ち、大杉の手紙により肖像画を描くエピソードが出される。


七章
 一一一頁。林はアンチーヴで絵も描かず、相変らず落着のない日を過ごしている。或る日、K(小松清)からバルビユス訪問への同行を誘われる。
一一二頁。ツウロン行の汽車に乗り、カンヌを過ぎ四つ五つの小さな駅を経てトラヤという三方山に囲まれた駅で降りる。海に沿った街道を歩き、住人に尋ね朱色の小さな家を目指す。
一一三頁。二人は粗末な仕事着で小船にニスを塗っていたアンリ・バルビユスと崖の下で会う。
「今、彼はアナトル・フランスを論じ、労農ソビエットを讃え、クラルテ運動の趨勢に及び、その運動がいまや彼の双肩にかかっていることを語って、自ら噴気せねばならぬ秋と大見得を切っているバルビュスなのである。」と林は「美しい声で革命を語る」バルビユスを描写する。
「話の詳細に至っては遺憾乍ら分らなかったが、その大体は共産主義の賛美、無政府主義を非難するものであろうと朧げ乍らそれを察しられた。」
 一一四頁。「僕はふと彼の肖像を描きたい気になった。そのことを彼に云うと、四、五日ならモデルになってもいいと云う返辞だ」。三人は食堂で赤葡萄酒を飲む。バルビユスは自転車で二人を停車場まで送る。林はバルビユスの思想的立場はともかくとして人間的に惹かれたようである。
 しかしこの後、林はリヨンに行く決心がつき、バルビユスには断りの手紙を出す。
「リヨンの大杉から、何日シュトラスブルグ経由でドイツへ立つという電報が来た」。すれ違いになるのを避けるため林はリヨンの大杉に「しばらく待ってくれ」と返辞の電報を出し、パリへ出る小松と一緒にアンチーヴを去る。

八章
 一一六頁。林は二十日ぶりでリヨンに滞在していた大杉と一緒になる。小松は、その日の夜行でパリに向かう。
警視庁に旅券を預けてから二十日も経つが、大杉に対してドイツ行きのヴィザが出ない。林は「大杉はリヨンのJのグループと思われているので引き延ばされているのではないか」と推測をする。
林は大杉が検討をしたベルギーやオランダを経由してのドイツ行きを勧めていたが、中国の同志たちは穏健な方法でのドイツ行きを提言していた。
一一七頁。リヨンで林はJたちに部屋を探してもらい、食事は大杉と一緒にJの家で食べるようになった。
大杉はヴィザに関しては成り行きまかせにした。
そして『日本脱出記』草稿を林を経由してパリに送り、そこから日本に送らせている。「改造に送る(註 掲載誌では「送った」)『日本脱出記』に手を入れ、其が出来たので僕の手を経て巴里に廻し、そこから日本へ送つた。」
 一一八頁。大杉はリヨンに滞在しているうちにドイツ行きの旅費を使ってしまい、ヴィザがおりても出発できなくなった。林の部屋も見つからず、二人はリヨンに厭気がさし、林は一時リヨンを離れパリに出ることにする。

九章  
 林は巴里に出、その日のうちに金を工面、大杉に送金をする。推測で書くしかないが、大石七分が融通したのであろうか。大杉からの手紙二通を林は掲載している。
 四月十七日付け「きのう高等課へ行くと、金曜日に警視庁へ廻してあるから、今からすぐ向うへ行くといい、たぶんもうできているだろうから、と言う。喜んで行って見ると、まだだ。……きのうはその帰りにゴリキーのEngagnant mon Painという自叙伝小説を買って来て、きょうまでそれを読み耽っている。パリはどうだ。……僕の手紙は二重封にして、そとはJにあてて学校へ送ってくれ。もう十七日だ、いやになっちまうよ」。
一一九頁。
 



『大杉栄全集』第三巻綴じ込み写真頁
編者近藤憲二によると撮影者は林倭衛、女性は下宿屋の娘









四月一九日付け「……きのうの午後また警視庁へ行った。……ア・ラスメエン・プロシエン(来月に)になるのかもしれない。……事によると、パリでも君のことを調べているかも知れない。こんなにして一々調べて行って、それがいっさい済んでからヴィザをくれるとなると、オ・モ・プロシエンがこんどはまたア・ランネ・プロシエン(来年)になるだろう。くさくさすることおびただしい。十九日」
 新聞記者と再会した四月二十日からの動きを林は描いている。
「井澤と鴨居も、僕と同じホテルに泊つてゐた。十九日付の大杉の手紙を受取つた二十日の晩、井澤と僕はサン・ミイシエル橋のそばのカフエで遅くまで飲んでゐた。井澤は、二十二日の晩に巴里を発つ。宮様の霊柩車に従ひてマルセーユへ行く筈だつた。鴨居は先発として、その日の朝だかにマルセーユへ立つてゐる」。「宮様の霊柩車」というのは北白川宮家成久の霊柩車であった。

四月一日、パリ近郊で自動車事故で死亡した。


 林は続けて書く。「早晩、大杉がフランスに居ることは日本の方へ知れる事だ、いまでは又知れたつていゝんだらう、どうせ分ることなら、大杉に一応訊いたうへで、君が社の方へ電報を打つてはどうかと、僕から話を持ちかけた『それでは一日前に発つて、里昴に寄つて大杉に会ふことにしよう。一緒に行つて呉れるか』『行かう』夜中の一時半頃だつたが二人はタクシーを見つけて、巴里中央取引所構内の夜間電報扱所まで行つて、大杉に電報を打つた」。

と林は井澤に「特ダネ」として大杉のフランス滞在を報道させようとする。
「翌晩、十時の汽車に乗るつもりで、飯を食つたが僅か五六分の差で乗遅れた。で二十二日朝八時の特急で立つて、里昴に四時頃着いた。僕は大杉の手紙に拠つて、直接彼の宿へ行くのは危いと思つたからJの家へ行つた。

Jは留守で、妻君に大杉の宿へ行つて貰つた。彼はJの妻君とつれ立つてやつて来た。井澤とは既に日本で大分以前だが会つてゐたので、わざわざ紹介の要もなかつた。だがお互に顔は忘れかけてゐたらう」。大杉と井澤は対面をした。

「Jの家を出て三人で里昴の街へ下りた。カフェで一杯やり乍ら話の打合せをして、鳥度贅沢なレストランで晩食を喰ひ乍ら僕と井澤は又飲んだ。井澤はその夜四時里昴を通過する、宮様の霊柩車と共にマルセーユに行かなければならなかつた。それまでの永い時間、僕等は飲み歩いて過した。仕舞にはどこでも閉め出しを喰つて、停車場構内のビユツフエに入つた。

そこでも三時頃になつて追い出された。それで汽車の到着までには未だ間があつたが井澤と別れて帰へることにした。振り返つて見ると、彼は黒い折鞄をかゝへ、ステツキを持つて、ヒヨロヒヨロとプラツトホームに蹌踉としてゐた。(後にきいたが、彼はその折鞄とステツキほベンチの上に残して、汽車に乗つたそうだ)大杉はその晩僕の宿で泊つた。」。大杉は酒を飲めず、林と井澤は酒を飲み続けている。三人は何を話したのであろうか。井澤記者も会談記を残していない。



 一二一頁。「夜は必ず二人で里昴へ下りた。一緒に飯を喰い大抵十二時頃まで、カフェを歩いて、僕がいゝ加減醉ふまで、ぶらぶらして過した。井澤は、四日経ち五日過ぎてもかえつてこない、井澤からは何んの音沙汰もなく、午後になつてJの家へ出掛けて、大杉と一緒になるまでは、ほとほと身を持て余してゐた」。リヨンで井澤を待つ日々である。
 一二二頁。「恰度一週間目で、井澤は鴨居と連れ立つてやつて来た。その晩は四人で夜更けまで飲んだ。ふたりの呑気者は帰へることを忘れて、マルセイユで飲んで居たにちがいなかつた。翌日午後二時の汽車で僕等三人は巴里へ立つた。別れ際に、大杉は、僕も巴里の五月一日祭を観たいから、吃度二三中にこゝを抜け出して行くと去つてゐた」。
 林と二人の記者は大杉をリヨンに残してパリに向かう。メーデーを観るとすでに決意していた。
 

この時期の大杉の動きは外務省に把握されていた。四月十九日付けの松田代理大使名による報告書を再掲する。
「大正十二年四月十九日 五六九三(暗)松田代理大使巴里 后六 本省着大正十二年四月二十日后二 内田外務大臣 第二八三号」
《往電第二〇八号に関し(大杉消息)》
「大杉栄の《フランクフルトアムメイン》に於ける主義者大会参列は仝会合の招請に基きたる趣なる処仝人所持の支那旅券に必要の査証を取付けることの得ざりし故を以て同会へ参加することを得ず其侭佛国に滞在し居たるも所持金欠乏し■■生活に窮し来りたる尚既報の上海■■主義者との関係を辿りて里昴に滞在支那学生として保護を受け居れり仄聞する処に依れば■■(大杉)に於ても支那側の手先となることは潔しとせ■処なるのみならず佛支学会の保護を受たることも一層危険の処なり且今回砥渡欧の目的も各国主義者との連絡に非ずしも単に研究視察に止るものの如く目下入露を断念し近々独逸内に開かれるべき無政府主義者大会へのみは万難を排しての出席の覚悟なね趣にて同会終了の上は帰郷の希望を有する由なり目下在独日本人知人訪問無く金策を兼ね独逸へ入国の為再び支那旅券に所要の査証取付方を試み居れるが既に仏国官憲よりも不審なる人物として注意せられ居るやにて査証を得ること頗る困難なるに付■■海外旅券の交付を受けたる趣■■同人知人より特別の詮議ありたる旨願出の次第あり就ては同人に対する今後の処置に戴き至急付回電を請ふ独逸及里昴へ暗送せり。」
 中国の同志たちの「保護」を受けていること、ドイツに行けず金欠状態であること、金策に動こうとしていることが報告されている。
                    

註 以下は「メモ」

十 

二十九日の夜、里昴の大杉から、明朝巴里に着く、と、電報がきた。
…彼は午後になつて、ぶらりと這入つて来た。
…リベルテールへメーデーの集会の場所をきゝに行つて来た。そう云つて今度は裁縫女工の罷工に就て、彼女等の生活状態の詳細な統計などを見せ乍ら話してきかせた。
東京日日に掲載された原稿を持参していたことを匂わせているのか
僕が話の末に文士のS・Kが巴里に来てゐることを話すと、S・Kは僕も一寸知つてゐるし、芝居のことを話したいから直ぐ訪ねて見よう、と彼が云ひ出した。
S・Kと林との巴里の一夜


一二三頁 五月一日から二日
五月一日のメーデーには十一時頃、彼は僕が寝てゐる内にやつて来た。これからサン・ドニーの集会に行くんだと云ふので、僕も起きて十二時頃一緒に戸外へ出た。
…翌日はひる頃までねて起きたが、彼は未だ姿を見せなかつた。
…五時頃だつたらうか、烈しく戸を叩く音と共に、たゞ者とも覚へない、人相の悪い男が五六人、荒らあらしく、どやどやつと僕の室に這入り込んできた。後とから大杉がこゝろもち蒼ざめた顔で、稍々亢奮した沈黙の体で続いて入つて来た。


一二四頁
ホテルのビユウロウで、鴨居が二人の男に調べられてゐた。
宿をたまたま離れようとしていたときに来た林を調べに警官と出会った


一二五頁
林も警視庁へ同行を求められる
 僕は大杉に追ひついた。『どうして露見つたんだ』と声をかけた『新聞に出て了つたそうだよ』『僕は何にも知らないで通すぜ』『うん、それでいゝ』


一二六頁

…明朝九時に茲へ来いと言渡されて、そこを出た。

十一 あくる朝、十時頃警視庁へ出掛けて行つた。


一二七頁
それからは鳥度忙がしい日が続いた。S・KやA新聞の特派員で、大杉とは語学校の同窓だつたMや、僕の友人のHに色々と世話になつた。Mは早速或る弁護士を訪ねて、事件の成行、牢屋の様子などを訊いて来て呉れた。

コロメが牢屋に行くというので手紙を書くことを勧められた

一二八頁
警視庁の人間カモイも訪ねた

一二九頁
巴里法院


一三〇
トレス弁護士、ゼルメン・ベルトンの裁判を弁護、一月に無罪


十二
公判の翌朝、Hを訪ね彼を通じて大使館へその後の成り行きを聴き合わせてもらうため。Hは大使館に電話をかけた。
 日本から、北方の国々へは入れるなと云ふ訓電が来ているから、結局西班牙へ行くより他あるまいと云ふことだつた。それに警視庁でも西班牙へやる事に決めて、今晩の八時の汽車で立たせる手筈になつている事まで判つた。

林は大使館までHと一緒に行く
「大使館の杉村氏が警視庁から帰つて来たところで、警視庁との行きさつを聴いた。」この事は大杉が同じく『入獄から追放まで』に書いている。
 すると翌日の夕刻マルセイユから電報が来た。
西班牙行きを中止されてマルセーユに送られた、委細は手紙を出したとあつた。

二五日の手紙

箱根丸の出帆
六月三日
大杉の船室で領事と三人で話す

七日 地中海にて 栄  
 
六月十九日  コロンボから

七月に無事に着いたという電報

リヨンから手紙
大杉に関連したといふだけで他に何の理由もなく佛国政府から追放命令を受けた
二三日の後に巴里に来た送別の晩餐
フライブルグに不自由な身をとどめている
僕は八月十日頃追放された事を大杉に知らせたが、恐らくその手紙は今度の大震災に遭つて紛失したか或は彼の手に入らない前に彼は殺されていたらうと思ふ
 一九二三 十二月三十日
      巴里にて 



(引用文献は外務省外交史料館所蔵、『日本脱出記』アルス刊、及びアルス発売元の『大杉栄全集』所載の「大杉栄書簡」、『金子文子・朴烈大審院裁判記録』等の資料による) 


ブログにおける補注
画像としてアップの「校正を終えて」に関して

 アルス版編者にして労働運動社同志、近藤憲二による『日本脱出記』編集記
土曜社版では収載されず言及もない。
タイトルを同じにするならば元本との収載文の異動は記すべき事柄である。















アルス版『日本脱出記』に収載されている論文

「無政府主義将軍」 1923年8月10日


「マルクスとバクウニン」 1922年12月5日東京にて

初出『労働運動』11号1923年2月10日発行 同タイトル<上>
   『労働運動』12号1923年3月10日発行        <下>

大杉栄・日本脱出記 5 「大杉栄のフランス行、滞在時のクロニクル」

1921年2月退院、野枝
一九二二年一二月一一日、大杉栄、自宅を密かに抜け出す、和田久太郎を手伝わせる。


一二月一二日朝、神戸に着く、ホテルの部屋で『自然科学の話』の翻訳原稿を直す。


一二月一四日、イギリスの船で神戸を出発、上海に向かう。

一二月、上海で中国の同志を訪ねる、ロシア人の下宿に落着く。

一九二三年一月五日、大杉栄、ル・ボン号で上海を出る。伊藤野枝宛「…『種の起源』を二、三章と『改造』への第一回通信をほんの少し書きかけたくらいのものだ。……船がどこの国の何という船かということが分ってはまずいから、途中の手紙はいっさい発表してはいけない。」。

二月一三日、大杉栄、「パリに着くモンマルトルの真ん中に宿をとった。」

二月、林倭衛宛「僕もやって来た。……僕の来たことは絶対秘密。」。

三月一日、伊藤野枝宛「パリにて。ここに来てもう一〇日近くなる。停車場からすぐリベルテール社へ行って、前に手紙をよこしたコロメルという男に会った。フランスでは老人連は戦後みなひっこんでしまって、今ではこの男が一番の働き手だ。まだ三十そこそこだろう。……翌日、郊外にいる支那の同志連を訪問した。……その後はほとんど毎日、支那の同志とばかりの会見だ。リヨンにも一〇人ばかりいたが、ここにも二〇人ばかりいる。それをまとめてしっかりした一団体をつくらせようと思うんだが、ずいぶん骨が折れる。し……船の中で書きかけた原稿を、今日からまた始める。二、三日中に送る。それを改造社へ持って行って、金にして、また電報為替で送ってくれ。………本や雑誌はみな受け取った。『自由連合』が来ないが、まだ出ないのか。……」。


三月二八日、伊藤野枝宛「僕についてのいろんな風評は日本や支那の新聞でちょいちょい見ている。…社での問題の、結局は大衆とともにやるか、純然たるアナキスト運動で行くかは僕もまだ実は迷っている。純然たるアナキスト運動というそのことにはまだ僕は疑いを持っているのだ。これはヨーロッパで今問題の焦点になっている。そのことは通信で書いて行く。……とにかく僕は今すぐドイツへ行く。ベルクマンやエマもいるようだし、マフノと一緒に仕事をしたヴォーリンなどという猛者もいる。ロシアのことはベルリンに行かないと分らない。……もう目がまいそうだ。二月号の『労運』見た。三月二八日」。

日付不明。近藤憲二宛「いろんな奴に会ってみたが、理論家としては偉い奴は一人もいないね。その方がかえっていいのかも知れないが。が、戦争中すっかり駄目になった運動が、今ようやく復活しかけているところで、その点はなかなか面白い。そして若いしっかりした闘士が労働者の中からどしどし出て来るようだ。………ドイツはよほど、というよりはむしろ、今ヨーロッパで一番面白そうだ。そこでは無政府党と一番勢力のある労働組合とが、ほとんど一体のようになっている。そしてロシアから追い出された無政府主義の連中が大勢かたまっている」。

三月三一日、林倭衛宛「K(小松清・建設者同盟、ジイド、マルローの訳がある)の方も金が来たんでは、お互いに思いがけないところで助かるね。僕の方もきょうようやく金が受取れた。」。

四月二日、林倭衛宛「……バルビュスの肖像がうまく行くといいがね。僕もバルビュス(共産党)とアナトール・フランス(共産党から除名された)とロマン・ローラン(まず無政府主義)との三人に会って、三人の比較評論を書いて見たいと思っているんだが……火曜二日。」

四月五日、「日本脱出記」『日本脱出記』脱稿。



四月二九日、大杉栄、パリにて林倭衛、佐藤紅録と会う。

リンク
パリにおける大杉氏 佐藤紅録

五月二四日「裁判所の留置場へ行った。警視庁へ回る。内務大臣の即刻追放の命を受けた。四時頃、一等書記官の杉村なんとか(註・陽)太郎君だ。マルセイユへ出発しろと命ぜられる。一週間めに出る箱根丸で帰る都合をつけてくれた。

五月二五日、林倭衛宛「友人諸君から金を集めて日本までの船賃をつくってくれないか。……裁判所から受取ったケースの中に、予審判事が(この事実は弁護士も知っている)証拠物件として持ち出した、日本文の手紙や原稿なぞがはいっていない。これは弁護士と相談して、貰えるものなら貰って来てくれ。……僕の拘引以来の、僕に関する新聞記事をあつめて貰ってくれ。……二十五日正午」。

六月三日、大杉を乗せた船出港「朝早く、碇をあげた」。

七月一日、『労働運動』一五号《編集室から》近藤憲二「国際無政府主義大会へ出席の為に出かけて行った大杉は、大会延期のため、遂に三ヶ月のフランス滞在の後に、追っ払われて帰って来る。…」《国際無政府主義大会の延期、捕われる以前》在仏大杉栄。

七月一一日、箱根丸にて、「牢屋の歌」『日本脱出記』脱稿。

七月一一日、神戸和田岬に待ち構えた兵庫県警察部のモオタアボオトは箱根丸から大杉をさらって隠し、市外林田警察署で内務省の特命を受けた特別高等課長は約五時間に亘る秘密訊問の後、釈放」。七月一二日、大杉、東京に戻り駒込片町一五労運社に落ち着く。




八月一〇日、「入獄から追放まで」『日本脱出記』脱稿。

八月一八日、自由人社で大杉栄の仏国行の話。

八月二〇日《三〇日の説もある》大杉、アナキストの《連合》を企図して根津権現の貸し席で集りを開く。不逞社新山初代の《証言》「望月桂、岩佐作太郎等、二、三〇名集まって無政府主義者の連合組織問題の相談会がありました。私は鄭と一緒にその会に行きました。金重漢、洪鎮裕が来て居りましたが朴烈夫婦は来て居りませぬでした」 
註「不逞社」は金子文子と朴烈たちが組織した日本に住む日本人と朝鮮人のアナキズム的傾向をもつ人たちの集まり。
リンク  金子文子の生き方




『大杉栄全集』第三巻 写真頁より 大杉栄・伊東野枝・橘宗一葬儀会場内部


『大杉栄全集』第三巻 写真頁より 大杉栄・伊東野枝・橘宗一葬儀に参集した民衆

















日本脱出記6  パリにおける大杉栄氏     佐藤紅緑  

巴里の大杉栄拡大
パリにおける大杉栄氏     佐藤紅緑  



もう随分古くなった。七年の過去だ。巴里に於てたった一日大杉栄氏と遊んで暮らした。其れは私としてあまりに不思議な一日である。 私は此の一日を何かに書こうと思って居たが、毎も事故があって果たさなかった。
 一年々々と延びて七年の年月が流れ、私の記憶が次第に朧になった。  だが私は私として奇妙に頭に遺り、其後も折り折り回想する事柄けを記したい。  

 大正十二年の四月二十九日であった、私は私の下宿して居る家族と昼飯を食べて居た。食事が済んで珈琲を飲みかけて処へギャルソンが二人の紳士を伴って入って来た。巴里はいま春である、巴里の春の光は日本の其れよりも烈しく和かである。私の住居は絵葉書によくあるエッフェル塔の裾で、公園のあらゆる樹木と明るい天の反射が私の家の廊下にあらゆる部屋々々に溢れて居る。  

 突然扉を開けたので恐ろしい明るさが颯とサロンに流れた。きらきらした光の中に二人の姿が見えたが眩くて誰だか解からなかった、私は林氏を漸と見分けて声を掛けた。「やあ」  卓子には未だ家族の娘さん達やマダーム達が椅子を離れずに居たので私は席を立った。そうして二人を私の室に案内した。

「馬鹿に娘さんが沢山居るね」と林氏はにやにやして言った。階段を昇って私の室に入るまで私は今一人の人は誰だか解からなかった。其人は草色の服を着て私よりは遙かに若く林氏よりは少し老けて見えた。「やあ、しばらく。八年振りでしたね」  其人は帽子を脱いだ。禿げたという程でもないが額が脱け上がって、髪が少し薄い人だと私は思った。其れでも私は誰だか解からなかった。「大杉君だ」と林氏が言った。 「ああ、そうだ」  一言に言えば私は大杉氏には何の親しみもない、交際もないと言ってよい。私は社会主義は大嫌いなのだ。  

 大杉氏と初めて会ったのは著作家組合を創立しようというので相馬御風氏や岩野泡鳴氏や其他約十五六人が相談会を開いた。此の会合が二三度あった。私は一度も欠席しなかった。大杉氏もそうであった。四回目が終わりで当日は来会者がほんの五六人であった。私は組合創立の熱心者として大杉氏を知った、大杉氏は一番若かった。  
 大杉氏と私との関係はこの席上で会合したに過ぎぬ。 いろいろな話が断片的に出た。  私が彼が何の目的で来たのかと訊いた。 「九月にベルリンに世界労働組合の大会があるから其れに行こうと思って居る」と彼は言った。  彼は私よりも三月ばかり前にフランスへ来た。そうしてリオンに隠れて居たのである。リオンに中国人の同主義者二十人ばかり一つの町を巣窟として住んで居る。彼は中国人になって其等と同居して居るのだ。 「君は日本では日本のお尋ね者であったが今度は世界的のお尋ね者になったのだね」と私は言った。

「そうだ」と彼は笑った。 

「何処から金がでたのか」 

「横浜の某氏から貰った」 

「後藤新平伯が出したという新聞が出たがあれは?」

「嘘でもないが本当でもない」 

「其れで君は何時パリへ来たのか」

「昨夜」 

「密偵が從いてるだろう」

「多分!」 

「何処へ宿った」

「林君の宿へ」 

「どうしてパリへ来たのか」

「君がパリへ来た事を新聞で見た、一寸会いたくなったから」

「そうか」  私は極めて奇妙な気持ちに襲われたので黙った。  

 元来彼の主張するものは何か、共産主義、労農主義、

彼は露西亜の其れと同じ主義を有て居るのか、

但しは夫等と異なった考を有て居るのか。  

 私は精しく聞きもし、又私の考えも吐露したいと思った。

だが私には其の勇気がなかった。

私は遙かに私を訪ねて来た人に議論を

吹っ掛けて不愉快な思いをさせたくなかった。

主義よりももっと大きなものが二人を結び付けたのだ。

面白く一日を暮らそう。  

 三人は宿を出た。  

 三人は散々遊んで疲れた。

 すると大杉氏はパリで第一等の料理を食いたいと言った。

「よし、行こう」林氏は第一等の料理屋と称する処へ案内した。  

 三人はキャッフェ廻りをしようという事になった。

どれだけ廻ったか解からないが

其中にラモルト(死んだ鼠)という店があった事を記憶する。

此処で林氏と私は故国へ葉書を書いた。  

 其れでも感興が尽きなかった。大杉氏は女郎屋を見たいと言い出した。

其れは私も同感であった、パリの公娼はどんな風にして居るか、

私としては視察の一要件なのである。  

 私達は、寂しい町の赤い軒燈の點った家へ入った。

トンネルの様な細長い路地を突き当たって扉を押すと、

驚くべし其処に昼の如く明るい電燈の下に十人ばかりの裸の

女が並んでいる。余りに突然なので私は逡巡した。

室は日本の十六畳位、壁は真赤に塗られて腰張 は全て鏡である。

上には淫らな裸体画が掛けてある。

向かって右の赤い壁の下に腰掛が長く打ち付けてあり、

其前に卓子ヵ五六脚並んで居る。右側の奥は二階の寝室へ

行く階段で入口に近い処にスタンドがあり、

酒の壜や食器など日本のキャフェと異らない。

何しろ身体に一糸を纏わぬ十人の女、

身に着けたものは靴だけである、

が私達を見るや否や灯取蟲が電燈に群がる様に

跳び付いて来たのだから堪らない。  

 モデルを見慣れた林氏には一向珍しくもなかろうが

私はただ途方に暮れた。

どうして此の肉陣を脱出しようかが差し当たっての問題である。

いかに肉を売るのが商売とはいうものの赤裸々の肉其のものを

店頭に曝すに至っては外国人は日本人よりも遙かに残忍であり

低級趣味であると思った。  だがそんな事を考えて居られない。

女はどしどし肱を取り首に巻き付き大蛇の様な唇を寄せて来るのだ。

私は巴里のサロンやブルュセルの博物館にある「虐殺」の画を連想した。

私達はまるで女に擒にされて今将に虐殺されんとして居る様なものだ。  

流石の豪傑林氏もこれにはすっかり参ってしまった。

「やあどうもこれは」  彼は唸り唸り退却した。

「やあ、やあ」  

此のやあという当惑の声は滑稽でもあるが悲惨である。

私達は何時の間にか壁際の腰掛に押付けられてしまった。

私は考える処あって一番入口へ近い処に座った。

私の隣は大杉氏で林氏は一番奥の方である。 

「ビールを飲もう」と大杉は言い出した。

裸体女の曲芸が始まった。

女の中に一人の黒人種があった、白人の中の黒人は益々黒く見える。

其顔は破れた古靴の如く横に拡がって唇だけは赤子を食った様に赤い、

此の怪物は私を目がけて突進して来た。

恰も夫れは有色人種同士だから同情してくれと言うかの如く見えた。

同情はするが近寄られては困る、私は逃げ出そうとした。

すると大杉氏は彼女を自分の傍らに坐らせた。

「こいつは可愛そうだよ」と彼は言った。

私はそこに大杉氏の片鱗を見た。

彼は洋盃を捧げて女に飲ませ、それから煙草を一本くれてやった。  

 そこへ一人の労働者風の客が見えた。

汚れた服を着て袋になった中折帽を阿弥陀に被って居る。

スタンドの主人が何か号令を掛けた。

十人の女はぱっと私達の傍らを離れて卓子の向側に整列した。

労働者はじろりと其れを見やった。  

 此の隙に私は雲を霞と逃げ出した。

トンネルを過ぎて入り口へ出た時に大杉氏が逃げて来た。 

「林君は?」 「どうしたろう」  

言う間もなく林氏はのそりのそりと落ち着き払って出て来た。

「君等はなかなか速いね」  私は彼の沈勇に感服した。

私達は妙に憂鬱になった。

人間の最も残忍な醜悪な状態を明からさまに見せられたのある。

「あれに比べると、日本の公娼の方が遙かに上品だ」と大杉氏が言った。  

 廃娼論者の私でも其れには首肯しないわけに行かなかった。

世界の都たる巴里にもこんなものがある。

人類の住む処にはどんな醜悪が動いて居るか測り知る事が出来ない。  

 私達は再びキャフェへ行った。もう二時である。ソロボン附近は其れでも

一軒だけまだ盛んに騒いでるキャフェがあった。  

 私は到頭二人に別れた。私がタクシーに乗る時大杉氏は私に恁う言った。

「明後日の労働祭にイタリーの付近で労働者が芝居をやります。

木戸銭は一フランです。見て行きませんか」

「結構、見たいな」

「じゃ、僕が迎えに行くから待っててくれ給え」

「ああ待ってるよ」  

 私は宿へ帰って疲れた身体を寝床へ横たえるや否や熟睡に落ちた。  

 一日過ぐれば五月一日である。私は朝から大杉氏を待って居た。

九時になり十時になった。大杉氏は見えない、私は郵便を出しに外へ出た。

町行く人々はどれもどれも鈴蘭の花を胸に着けて居る。

花屋の屋台には鈴蘭が山の如く積まれて居た。

私は一束を買って宿へ帰った。  





 大杉氏は未だ見えない。午後になった、夜になった。

到頭私は一フランの貧民芝居を見る事が出来なかった。  

 翌朝私は散歩にでようと思って階段を降りると其処で此の家の

秘書役たるC婆さんに逢った。C婆さんは英国人で大きなべっ甲縁の眼鏡を掛け

何時も腕首まで袖のあるコスチュームを着て居る。

頭は斑白でもう五十だというに自分で処女だと言って威張って居る。

「サグ、ムッシューサトウ」と彼女は声を掛けた。 

「貴方は今日のゴーロラを見ましたか」と彼女は言った。

「いや見ません」

「日本の共産主義者が逮捕されましたね」

「日本の?」  

 私の頭に大杉栄の姿がはっきりと浮かんだ。

「そうです、そうですお待ちなさい」  

婆さんは慌ただしいく部屋へ引き込んで新聞を持って来た。 

「それここをご覧なさい」  

 其れはほんの十行ばかりの記事であった。

昨日のメーデーで労働者大会の連中が路傍演説を始めた

其中に一人の中国人が極めて露骨で大胆な演説をした。

警官が夫れに中止を命じたが肯かないので拘引しようとした、

すると労働者共は中国人を助けるために警官に抵抗した。

応援巡査がやって来た。見る見る双方の戦いが激しくなり、

互いに負傷があった。そうして到頭二十余名を拘引した。

この過激な演説をした中国人は自ら中国人と称して居るが

実際は日本人らしいと当局者が睨んで居る。  

 私は此の記事を読むと思わず手を額に当てた。

「困った事をしてくれたなあ」  

 其れだけである、其他の考は何も浮ばなかった。 

「知ってる人か」と婆さんが言った。

私は可い加減な返事をして家を出た。

「無論大杉だ、其れに違いない、大杉だとすると扨てどうして可いものか」  

 私は考え考え歩いた。私は兎も角、林氏を訪ねる事にした。  

漸と林氏を訪ねたが留守である。  

 私は直ぐ大使館へ行って見る事にした。 

 大使館で私は×氏に会った。私が話かける×氏の方から言った。

「あれに就いては実に困ってるんです。警視庁では

日本人だと睨んで居る其れに違いない。

確かに大杉ですからね。だが大杉は中国人だと言って居るから

今の所では都合が可い。

どうか日本人と言はずに押し通してくれれば可いがなあ」 

「其れじゃ、いま此処で騒がない方が可いですね」 

「そうです、先刻警視庁から電話で訊いて来たが多分其れは

中国人だろうと言ってやりました。

そういう風ですから様子を見る方が可いでしょう、

貴方は大杉とどういう間柄なんですか」 

「何でもないけれども僕に会おうと思って巴里へ出て来たのが、

急にあんな事をやったもんだから僕としては見捨てて置かれないのです」

「其れは御尤もです、僕にした処が官職を離れて単に

一日本人の立場から考えると、

同国人が拘引されたと聞くと、黙って居られない様な気がしますよ。

其れは貴方も飛んだ災難ですね。」

「災難という程でもないが、只だ大杉は肺病が漸く癒りかけた許ですから

此処で監獄に打ち込まれると可愛そうです。

こっちの監獄はパンと水ばかりだそうですからな」

「そう、どうしてあんな事をやったんですな」

「計画的じゃないと思います。九月に伯林へ行かなきゃならないと

言いますから……若いから大会の空気に興奮して気勢を挙げたんだと思います」

「一体大杉の主義は何ですか」  

 突然×氏は恁う言て其の大きな肩を揺すった。

「僕にも能くわかりませんが……」 

「幸徳などとは全然異う様ですね。国体破壊などという過激な考えはない様ですね」  

 彼は凝と考え込んでから又言た。

「何しろ、中国へ行て中国人の名前で旅行券を取てリオンへ来て、

中国人と共に生活して其れから巴里へ出るまでに、

随分苦労したに違いありません。

主義に於ては賛成が出来ないが、

個人として考えると、大杉はえらいと思いますよ。

主義に殉ずる志、これは矢張り尊敬しなきゃなりませんね。

只だね、其の主義なるものが本当に日本のため、

人類のために善いものものなら可いが……、

あれだけの熱心をもっと立派な主義に向けたらどんなに

日本のためになるか……惜しいものですな」  

 私は何から何まで×氏の説に同感であった。

一社会主義者、私達の立場から見て異端者である彼に対して、

恁くまで理解ある同情を有った人があるかと思うと私は何となく

喜ばしくなった。  

 私は大使を出て再び林氏を訪ねた。

林氏は依然として留守である。

帰ろうとして外へ出て上を見ると窓から日本人の顔が見えた。

彼は四階の上から河を眺めて居たのある。

私は彼を知らない。だが日本人である以上は同宿の林氏を知らない筈がない。

「君、林君はどうした」と私は大声で言った。

「居ません」 

「何処へ行ったろう」

「今朝警察の奴が来て林君の荷物を全部持って行ったので其の事でしょう」 

「林のものを取り押さえたって仕様がないじゃないか」

「巴里の警察が林の画でも買い上げる積もりでしょう」 

 私は此の青年画家の名を忘れた事を残念に思っている。

「林君が帰ったら、僕の処へ来る様に言ってくれ給え」  

私は恁う言って引返した。其翌日私は林氏を待ったが来ない。

仕方なしに再び大使館へ行って×氏に逢った。

「駄目だったあれは」  

 ×氏は大きな目に微笑みを浮かべて言った。

「とうとう日本人だと言ってしまった。

今警視庁から電話が掛かって来ました。

一寸行って来ます」

「其れじゃ後で又来ましょう」  

 私は大使館を出た。もう大杉である事に確定した以上は方針は

只一つに向かえば可いのだ。第一は大杉を釈放して貰う運動だ。

第二は釈放が出来ないとしても差入物や何かの用意だ。  

 日本に居ると隣に火事があっても尻を上げないというので友人に

笑われて居る私が、大杉釈放や差入物などの運動をするという事は

実に負いきれない努力で或。其上に言語が不自由である。

私は全く弱ってしまった。  

 私は不図某新聞記者のM氏を憶い出した。 

 M氏を訪ねると留守である。  

 大使館の×氏も個人として大杉氏を尊敬しながら主義に

於ては接近する事を避けて居る、M氏も大杉氏を助けたろうが

累を本社に及ぼさせては大変である、

私としても只一ボヘミアンたる佐藤ならどんな事でも出来るが、

今の処では日本政府の嘱託という肩書きを有して居る。 

「やるだけの事はやらねばならん」  私は恁う決心した。

そこで私は直ぐ車に乗って警視庁を訪ねた。

私が会ったのは何の位の資格の人だか解からないが

兎に角保安課長の次席位の人であった。  

 私が来意を告げると彼は微笑した。

其れから長い指を組み合わして胸の処へ置き。

「何でもない事です」と言った。 

「何時になったら釈放してくれますか」

「さあ、もう二三日……一週間……或いは二週間……」  

 私は驚いた、二三日と二週間とは大変な違いである。 

「何しろね、日本大使館が引き取ってくれれば可いが、

引取らなければ相当に長くなります」 

「引取る引取らないは別問題として、

兎に角巴里の警視庁が此の事件をどう取扱うかに就て私は心配して居ます、

一体恁ういう国事犯に就ては今までどういう風に取扱って

居たのですか」 

「左様左様、其は至極簡単にお答えがで出来ます、

つまり追放ですな」  

 其れから私は大杉が病弱であるから長い間

牢獄には堪えがたき事や、

出来る限り早く追放して貰いたい事などを頼んだ、

そうして最後に現下の牢獄状態に就いて訊ねた。  

 そこで私は差入物の手続きをして帰った。  

 それで大杉氏に対する大略の要件が終わった、  

伊太利行きは延ばすべく決心した、

が此処に飛んでもない事件が出来らいした。

其れは大杉氏の同志と症する青年達が

毎日私の家へやって来る事である。

「佐藤という男が警視庁へ行って大杉のために奔走して居る」 

此の報知が次から次へと伝わったと見える、

事件で入獄したものは大杉ばかりでない、

大杉と共に巡査を殴った二十人である。

此の中にはロシヤ人もあり、瑞西人もありポーランド人もあり、

獨逸系のアルサスローレン人もある、

私は今は其等の人の名を悉く記憶しないがGという兄弟だけは

はっきり記憶している。

Gはロシヤ人を母とし佛蘭西人を父として居る、

兄は大きな男で吃りではあるが恐ろしく雄弁である。

弟は黙って居るが、いつも最後の決断は弟の一言に依るのであった。

兄はもう四十位、弟は其れより五つ位は若い様に見えた、

其他二十一歳の青年や白髪の老人もあり、

特に私の注意を惹いたのはTという若き婦人で彼女の恋人は巡査をなぐって

収監された一人である。Tは市場でバナナを売る女であった。

最初の日彼女は私にバナナが好きかと訊ねた、

私はそうまでにすきでもないが御世辞に好きだと言た、

すると彼女は翌日バナナを持て来た。  

 此の事件に依って端なくも私は欧州に於ける共産主義者の群に

接近する事が出来た。

大杉のために奔走して居るという事が彼等をして

私を誤解せしめた、

彼等は私を同主義者だと信じて居たのである。

何れの国でも破壊的思想を有て居る者の精神は

いつも興奮して居る、彼等は絶えず戦闘状態にあるのだ。  

 彼等は極めて無遠慮に私の室へ入って来て其の大きな手で

私の手を痛いほど握る、

其れから室一ぱいに煙草の煙を漲らして議論を初じめる椅子が

足りないので三人位は寝台の上に乗って足をぶら下げて居る。

私は彼等から主義の上に於て若くは彼等の運動方針に就て

何も聞く事は出来なかった、

無論私の語学の力は其れを聞き逃したのかも知らぬ、

彼等は大杉氏及び其の共犯者(?)が何時釈放せらるるか、

当局の意向はどんな風にか、長びくか、

但しは近々になるか、そんな事に就て私に訊ねた。

そうして又銘々に其の意見を述べた。  

 或日Gの兄が一人でやって来てロシヤの労農政府を罵倒した、

労農政府がアメリカの機嫌取をやるのは怪しからぬ、

そんな事をするよりはも今吾々が第一に着手しなければならぬ事は埃及だ、

印度だ、土耳古だ、そうして中国だ、本当の共産主義は東洋を根拠地と

しなければならぬ。  

 彼は手を振り眼を■って長々と独り演説をやった、

其れから折々私に返事を促して英語交じりで戦争の惨苦が

世界人の頭から冷めきらぬ中に共産主義を浸み込ませなければならぬと言った。

そこへ弟のGが入って来てそんな空漠たる事を言って居るべき場合でない、

独逸の食料組合が大資本家に買収されんとして居る、

先ず欧州の食料問題で一と軍しょうじゃないかと言った、

二人は恐ろしく興奮して論じ合った。

そこへいろいろな人達が入って来た、

終わりにT女が来て例のバナナを私の卓子に置き、

私から五フランの勘定を取って行った、

私は貰ったのだと思って居たが、彼女は私にうりつけたのである。  

 四日も恁ういう状態が続いた、毎日彼等がやって来て議論をしてバナナを食って

解散する、私の室は恰ら共産主義者の事務所の様になってしまった。

これには私も堪えられなかった。

私は日本人倶楽部へ遊びに行った、

異郷にあると同国人と日本語で語るのが

何よりの楽しみである。

無論私は林氏が倶楽部に来て居るだろうとの予想もあった。  

 林氏は見えなかった、私は帰ろうとすると偶然大住氏が

一人の友と共に入って来た。

「日本主義愛国主義たる君が、非日本主義非国家主義たる

大杉のために奔走して居るのは可笑しいじゃないか」 

「ありがとう、僕は明日伊太利へ行くよ」 

私は大使館へ行って後の事を×氏に頼んで翌日伊太利へ出発した。

其れから一月以上私は大杉氏の消息を知らなかった。  

 私は巴里へ帰ってから直ぐ白耳義に遊び和蘭を経て伯林に入った。

三月は夢の如く過ぎた、と本国震災の報に接した。私は帰らねばならぬ。  

 私は三度巴里に入った。

「やあ」  

林氏は椅子を私に与える事も出来ずに

只声を掛けたのみであった、

若き芸術家達の瞳は一斉に私の方へ向けられた。 

「僕は明日帰るよ」と私は言った。

「そうか」  

林氏はまぢまぢと眼を動かした、

其れから二三の人の頭越しに顔を挙げて私の眼を見詰めながら。

「あれがね」  

しばらく考えてから又続けた。

「あれがね、帰ったよ、君にくれぐれもよろしくって……僕はマルセーユまで送って行った」

「そうか」  

其の翌日、私は倫敦の客となり、

翌日(多分九月二十四日頃)大使館を訪ねて二三の友と応接室で語って居た、

そこへKという私の友人がエレベーターを降りて入って来た。 「大杉がやられたよ」  

彼は恁う言った、やられたという意味は私にも人人にも解からなかった。 

「殺されたんだ、憲兵に殺されたんだ、今電報が着いた」  

私は大西洋を渡って紐育へ着いた。

日本人倶楽部に日本の新聞が幾種も来て居る、

私は其れを貪る様に読む中に事の真相がはっきり解かった。

「危険を慮って甘粕大尉が独断で殺したのだ」 

ああ、余りに呆気なき大杉の最後である。

此の大尉は私の大切な仕事の一つを

私の手から奪ってしまったのだ。 


2005年7月31日アップ



大杉栄・日本脱出記 番外 2011林倭衛展  上田・槐多庵

日本脱出記「林倭衛-没後65年・その孤愁のゆくえ」展と林倭衛



信濃デッサン館別館



百瀬二郎の肖像



今回の「風紋」遠足・鑑賞ツァーの呼びかけ人、説明をする林聖子さん(倭衛さんの娘さん)















大杉栄・日本脱出記  番外 「林倭衛-没後65年・その孤愁のゆくえ」展と林倭衛

2011林倭衛展  
日本脱出記












「H氏の肖像」
H氏は久板卯之助 彼の貴重な写真が「発見」され『トスキナア』11号 4月発行に掲載。

大杉栄と同志たち「久板卯之助」(リンク)




『文明批評』創刊号掲載 原本掲載頁画像 拡大   2011年7月8日 追補 

雀隠れ日記 「2011年7月7日」 (リンク)に敬意を表して

所蔵の書籍『死刑囚の思い出』林倭衛装幀、大杉栄『獄中記』中扉、林倭衛画を
展示用に提供





『死刑囚の思い出』はカバーと本体の表紙に古田大次郎の肖像画
《古田大次郎・ 関連項目リンクは一番下にスクロールを》
ギロチン社(リンク)

林倭衛装幀・画 『死刑囚の思い出』発行後発売禁止になった。上記展示はカバー






2月26日展示終了後午後8時から『トスキナア』誌10号刊行・記念「講座」
キッド・アイラック・アートホール3F・4F 
講師・正津勉(詩人)「林倭衛とアナキストたち」

京王線「明大前駅」近くキッド・アイラック・アートホール3F・4Fで2月28日まで
開催中。11:00から20:00 同時企画展・酒場「風紋」開店時間中。
 同展案内の引用
「林倭衛は私の<信濃デッサン館>がある信州上田生まれの人。上京してアナーキスト大杉栄や画家硲伊之助、有島生馬らを知り、道路人夫などしながら画道に励んだ。倭衛の代表作といえば大杉栄をモデルにした「出獄の日のO氏」。
ひとくちにいえば倭衛は<反骨>を貫いた画家だったといいいえるけれども、フランスから帰国して春陽会々になってからの平明な風景画にもいいのがたくさんある。平明と反骨、抵抗と温順。
晩年の倭衛は日々酒浸りでのんだくれていたそうだが、私にとっての倭衛は、一生自分の真の姿を隠していた「孤愁の画家」のように思われる。倭衛の絵の底にある、色彩や線にひめられたふしぎな静けさをみていてそう思うのだ。
 今回の展覧会を「その孤愁のゆくえ」と題した所以である。」
             キッド・アイラック・アートホール 窪島誠一郎

『文明批評』創刊号 伊藤野枝、大杉栄編輯 林倭衛の詩掲載 1917年12月31日発行



他館の展示
府中市美術館
http://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/katudou/houshin/hayasisizue/index.html

「長野県上田に生まれ、東京で育った作者の林 倭衛(1895-1945)は、伸びやかな筆致と鮮やかな色彩で、詩情あふれる風景画を多く残しました。林倭衛といえば、のちに関東大震災で官憲に虐殺されたアナーキスト・大杉 栄をモデルに描いた《出獄の日のO氏》(1919年、長野県信濃美術館蔵)がつとに有名です。略  林は、「センジカリズム研究会」に加わり、当時のアナーキストたちと親交を結びました。

アートログ「林倭衛_出獄の日のO氏」
http://www.gallerysugie.com/mtdocs/artlog/archives/000157.html
『出獄の日のO氏』 大正8年作 長野県信濃美術館所蔵
苦学しながら油絵を習得する。大正8年の二科展に出品された本作は、モデルが反体制運動の中心人物「大杉栄」だったため、治安を乱したという理由で警視庁から撤回命令が出され会場から外されてしまった。

八二文化財団
http://www.82bunka.or.jp/gallery/1989/06/post-33.php
出獄の日のO氏 1919年 油彩
モデルは反体制運動の中心人物、大杉栄。第6回二科展に出品した。しかし警視庁から撤回命令が出され会場から外された。日本が軍国主義に傾斜していくなかで、芸術に対して思想問題での権力介入が行われた最初であり、日本近代美術史上、最大の汚点となった。しかし、この作品は彼の肖像画の中でも傑出。性格描写のすぐれた作品として評価が高い。
 
埼玉県立近代美術館 積藁
http://www.museum.spec.ed.jp/monoshiri/stock/kinbi/kin0057.html
2度目の滞仏から帰国後、林倭衛は病弱な妻の転地療養をかねて千葉県市川市に移る。本作はこの時期に描かれ、翌年の新文展に出品されたもの。松田改組によるこの新文展で彼は審査員に推されている。見るものの視線は、中央奥へと連なる積藁によって青紫がかった山影へと導かれ、ついで画面右半分を占める、刈入れのすんだ野の茫漠としたひろがりをさまようこととなる。ほぼ同じ構図の作品が神奈川県立近代美術館に所蔵されている。

同館 別所沼風景
http://www.momas.jp/004josetu/J2006/j2006.07/j200607.htm

姫路市立美術館 デジタルミュージアム 静物
http://www.city.himeji.lg.jp/art/digital_museum/meihin/nihon/siz_hayasi/index.html

愛知県美術館 サント・ヴィクトワール
http://search-art.aac.pref.aichi.jp/p/sakuhin.php?OI=OBJ199704947

上田人物伝
http://museum.umic.jp/jinbutu/data/026.html
やがてバクーニン宣言に巡りあい、倭衛は当時としては「究極的な理想主義」の言葉に巡り合えたような情熱を覚え、同じような青年たちとサンジカリスム研究の仲間を作ったのです。そんなグループが社会改革を目指して『近代思想』誌を発刊し、進んで『平民新聞』を刊行に至ったのが大正3年の秋でした。同じ風潮が画檀では二科会を立ち上げていました。

1月22日付け『朝日新聞』クリックすると多少は拡大されます




仏蘭西監獄及法廷の大杉栄を読む『トスキナア』誌10号 2009年10月発行掲載・冒頭転載

「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」は『改造』誌一九二四年六月に掲載された。画家林倭衛による大杉栄のフランス滞在時のドキュメンタリー記である。一九二三年、林は大杉栄とリヨン、パリで多くの時間を共に過ごした。大杉からの手紙を含む五万字余の報告記は林による大杉栄への長大な追悼記である。
 大杉が虐殺されて半年余の時期に発表され、まだ関係者に影響が及ぶことを考慮し詳細な描写を避けている箇所もあるが、林自身と大杉を中心に滞在中の日々が詳細に語られている。
 一九七〇年代に初出誌の『改造』を入手し黒色戦線社の大島英三郎さんに存在を伝えたが復刻版刊行に至らなかった。同時期に提供をした関連文献は復刻されている。
「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」に着目した松本伸夫は『日本的風土をはみだした男 パリの大杉栄』(一九九六年、雄山閣)を著した。松本伸夫は東京外語大仏文科を卒業、毎日新聞記者時代にパリ駐在員を経験、新聞社を離れた後は作家としてパリと日本人の関係をテーマに取材と著作を続け同書は二冊目の単行本となる。
 同書では大杉栄の思想にもひかれた著者が「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を軸にパリの大杉を再現しヨーロッパ、フランスの社会状況も含め時代状況を語っている。また林の友人で当事パリに滞在していた画家青山義雄に取材を行い、青山がラ・サンテ刑務所の大杉栄に差入れをしたことを初めて明らかにした貴重な記述もある。
 松本によると、青山は一九一八年一月、林に大杉と伊藤野枝を紹介され『文明批評』創刊号に挿絵を描く相談をしたという。
しかし井澤と鴨居という松本にとって「毎日」新聞の「先輩」記者の記述に関心を寄せず、固有名詞ではなく「二人の記者」としか表現をしていないこと、林が井澤記者に大杉のフランス滞在を告げようとする箇所では誤読もある。また小松清の「青春記」も参考にしているが、大杉との関連を表面的にしか把握していない点が残念である。
 小松清と大杉栄との関係に関して筆者は数年前に『小松清 ヒューマニストの肖像』林俊、クロード・ピショワ、(一九九九年発行、白亜書房刊)を知り、小松清の未発表自筆原稿は「エゴイスト」の存在から間接的に知り『トスキナア』創刊号に紹介をした。
同書で「エゴイスト」は「彼(小松)と大杉とのリヨンでの出会いが描かれているという点では、彼の『青春記』とよく似ている。だが、『青春記』に登場する人物がすべて仮名であるのに対して、この作品では、大杉、林(倭衛)、胡(フランス滞在の中国のアナキスト)、および彼自身と、すべて実名で書かれている。その内容においても『青春記』と比較して格段にリアルである。」と解説をしている。大杉のフランス滞在に頁を割いている著作として他に『大杉栄自由への疾走』がある。著者は鎌田慧、一九九七年に岩波書店から刊行されているが、同書では小松の作品に触れていない。
 掲載号『改造』の一九二四年六月号は他にどのような論文、作品が掲載されているのだろうか。目次から主たるものをあげておく。
「無産政党は必ず出現す」。巻頭言として書かれる。特集は「東洋人聯盟批判」。安倍磯雄、小川未明、アールビー・ボース、平林初之輔、秋田雨雀、千葉龜雄、生田長江らが執筆。創作のパートは山本有三、中條百合子、正宗白鳥、菊池寛らが執筆をしている。

 林は自身の日記から再現したのであろうか。林の滞在地はパリ、リヨン、マルセイーユ、エスタックと大杉と同行、時に離れて滞在地は移る。各章に見出しはついていない。各章の概要をあげる。
 
一章、林は大杉が二月十三日にマルセイユに着いていたことを回想し、その時、林はルセーユに近いエスタックという海辺の小さな町に居た

二章、大杉と会う。日本での大杉との出会いを述べている。大杉の来佛を井澤記者に伝える。

三章、三月上旬、巴里で大杉の宿を探す。モンマルトルの宿になる。

四章、モンマルトルでの生活。大杉は三月十七日に巴里を離れリヨンに向かう。

五章、リヨンでの中国の同志との交友。

六章、大杉とマルセイユで同じ船に乗船をしていたマダムNに会い行く。林はアンチーヴに行く、大杉から手紙が届く。

七章、林と小松清がバルビュスに会いに行く。

八章、林と大杉は二十日ぶりに会う、二人はリヨンで中国の同志Jの家で食事をとるようになる。大杉は『改造』誌に原稿を書き、林が代わりに送る。後に近藤憲二により『日本脱出記』としてまとめられるうちの一章。

九章、林は巴里に出る、大杉からの四月十九日付け手紙を掲載。井澤を大杉に引き会わせる。

十章、四月三十日、巴里、大杉は東京日日新聞に掲載の原稿を書く。
佐藤紅緑と林、大杉の三人で巴里の歓楽街での一夜を楽しむ。大杉のメーデーでの逮捕。佐藤は後年『文藝春秋』誌にこの時の交流を描く。
 
十一章、林の大杉に対する救援活動、裁判。
 
十二章、林は大使館へ問合せをする、マルセイユでの大杉との別れ、箱根丸大杉からの手紙 中国人同志Jの追放されたという消息が述べられる。



久板君の追悼   村木源次郎

天城の山麓 村木源次郎 ああ久板君!  

冬枯のうら淋しい山村の墓場から、やがて堀りだされた

寝棺の裡に静寂として眠っている君の姿は、

あり日の平和な顔をそのままに、

物問えば直ちに答えそうである。

薄紅を止めた、頬のあたりは、

暖き心臓を以て抱擁した

なら復活しそうに思われるが……

けれども君は永久に

眠って了っている。  

『年齢四十五才にて色白く高き鼻に銀ぶちの眼鏡を掛け……』

とあった廿四日の夕刊記事に依って、

テッキリ君と決めて了った望月、岩佐、僕の三人は、

今朝東京を出発してから此天城山麓に着す迄、

汽車の窓、馬車の中に、君が生前の奇行逸話を語り耽った。

湯ヶ島の村役場では君の遺留品を見た。

そこから山を辿って一理半、

いま眼前に君の死の姿を眺める。

されど殊更な駭きも嘆きも起らない。

現制度の矛盾残虐に憤り、世の苦しみに倦き果てたお互いは、

「如何にして死に打突らうか」と、いつもの死の方法や、

時と所とを考えさせられている。

いま僕の頭は、君の平和そうな面影に接して、

ただ羨望の感に満ちるのみだ。  

 

僕等が理想とする共産制に些かでも近い、

この質朴醇厚な村の人々の親切な手によって

葬られた君は、実に幸福だ。  

二十一日の夕暮、天城の南麓、

字宮の原の一茶店に憩うた時に、

その茶店の老母から受けた注意も聞き入れず、

『ナーニ僕は雪景色が大好きです』とばかり、

数葉のカンパスと絵の具箱と全財産を入れた

小さな合財袋を肩にして山へ懸った君……。

途中の雪に悩まされて山上御料林の番小屋を訪ねても、

留守の為にまた其所を立ち出た君の様子……そして遂に、

峠の頂上の暗黒と積雪に倒れた君の行動は、

平常の君を知っている僕等をして『どこまでも久板君だ!』

と呼ばせずにおかなかった。  

二十二日の午後、山の人に発見された君の凍死体は喜ぶ者と共に喜び、

悲しむ者と共に悲しむ古き習慣の残った村人の、

しかも戸別から一人宛集った四十余の肩と手に負い抱かれて山を降ろされ、

最も手厚く葬られた。古洋服に銀ぶち眼鏡を掛けた旅の凍死人は、

質朴な村の人々に、何んとなく『善い人だ』との感じを与えたそうである。  

この親切な村人は、

いままた僕等の為に彼方の谷間此方の山蔭の茅屋から集って来て、

誠心からこの寒き一夜を君の火葬に費して呉れる。  

ああ久板君!

僕はいま最後の握手をして君と別れて麓の湯ヶ島に帰る。

岩佐望月の両君は、明日君が最後に倒れた猫越峠へ二里余の嶮を踏む。

月は中空に、仰げば白皚々たる雪の猫越、

伏しては脚下を走る滔々天城の流此處幽玄なる字金山の小丘に、

君は永久に眠り給え。

去らば久板君!

(廿五日夜墓地にて記す)

 

□ヒサイタチャン

ゲンニイチャンカラ、

アマギヤマノ、

エハガキヲ、

モライマシタ。

ウタガ、

アリマス。

オオスギ・マコ

コノ山ノオクノオクノ

オクヤマデ ヒサイタオヂサン ネテイマス。

オテテヲムネニ チャントオキ、

雪ヲヒトネニ ワライガオ。

カヘラナイカト キイタラバ、

静カデイイヨトイヒマシタ。

1922 1月21日 久板卯之助凍死
1922 1月25日 服部浜次より、久板卯之助が静岡県下天城山麓に於て凍死せる報に接するや即時東京市本郷区片町労働運動社近藤憲二宛「久板に僕から■■から何程かをて呉風引行かれぬ宜しく頼む」
1922 2月1日 『労働運動』第2号<ロシアにおける無政府主義者1> 大杉栄<久板卯之助君凍死す> 1月25日
『労働運動』第3号  1922.3.15
1922 3月15日 『労働運動』第3号
<編集室から> 憲「久板君の追悼号は、付録として別に出す積りでいたが、編集の都合でやめにした。その代わり次号にも引き続き掲載するから、同志及び友人諸君は、どしどし投稿して呉れ。異色ありし同君を紀念するために」
<久板君の追悼> 村木源次郎 大杉栄 <追悼日誌> 
<性格の異彩(一)>久太
「『キリスト』と呼ばれた久板君の戯れ名は、一時、同志の間に有名なものだった。……」<卯之さんの絵> 望月桂 「画才、写生旅行、最初の油絵は一昨年の夏であった」
<真の革命家> 紀伊 村井林三郎<決死の尾行> 伊藤野枝「最初の尾行か。疲労から病死」<結婚の意志はあった>堺利彦「見合いを設定した」……<彼と性欲> 岡野辰之介<凛然たり>「K・Y生 強烈な意志、大阪でのエピソード……」
1922 4月15日 『労働運動』4号
<性格の異彩(二)>久太 「商業学校、牧師、『同志社叛逆組』、彼にも大きな煩悶の時代がやって来た。夜となく昼となく『如何に生くべきか』と考え耽り始めた。かくして何ヶ月かの後ち、彼は斯う結論を得た。『最も正しく生きるには労働生活の他にはない。そして、社会生活する上に最も必要なことは、人の最も嫌う労働をすることであらねばならぬ』そこで彼は『労働運動』、糞汲みが一等いいと考えついた。即ち、久板君の有名な『糞汲哲学』だ」
1922 6月1日 『労働運動』5号
<性格の異彩3 久板君の追憶> 久太「『労働青年』執筆>……」「『百年後の新社会』を勧める、彼は其の頃から、強く『個性の尊重』を叫んでいた。大杉君の家に同居して『労働新聞』を始めたのは大正七年一月だった、正月芝居でのエピソード」
1922 8月1日 『労働運動』6号 <革命の研究3>大杉栄

『祖国と自由』大杉榮追悼号

祖国と自由祖国と自由目次大杉書簡野枝神戸大杉遺児たち逗子の大杉

大杉榮 ラ・サンテ刑務所にて

ラサンテ獄中詩濃い

神戸に戻った大杉榮 出迎えの伊藤野枝,魔子

神戸の大杉栄拡大

巴里の大杉榮

巴里の大杉栄拡大

伊藤野枝/大杉榮 葬儀

大杉栄葬儀拡大1

大杉榮 写真/葬儀参列者

大杉栄葬儀拡大2

自叙伝 連載『改造』

大杉文献_0012_NEW

大杉榮 肖像写真/青年時代

榮学校時代

望月桂肖像画

望月桂

『社会的個人主義』中扉

社会的個人主義中扉

『生の闘争』中扉

生の闘争中扉

『文明批評』創刊号

IMG_0002
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『労働運動の哲学』カバー

28

1921年2月 退院の日、伊藤野枝と共に

1921年2月退院、野枝

『日本脱出記』

日本脱出記

『二人の革命家』ハード・カバー版

二人の革命家赤布























































































『二人の革命家』ブック・ケース

二人の革命家箱

















































大杉栄 バートランド・ラッセルと対談

1923年バートランド、トリミング_0002
























































































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